久保眞理記念礼拝

「指導者の信仰にならう」


 KFG志木キ リスト教会  主任牧師 松木 充 牧師
 

 

「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出し
 なさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさ
い。」   
                               (へブル人への手紙13章7節)                      



 待ち望んできた久保師の記念礼拝です。みことばに従って、思い出し、生きざまをよく見て、その信仰にならいたいと思います。 この手紙の著者は、テモテと同時代の人で、 「私たちの兄弟テモテ(が釈放された)」と言います(23節)。著者は、テモテと同様第二世代のキリスト者で、ここでの「指導者たち」とは、 ペテロやパウロのような使徒たちのことでしょう。 手紙の宛先は、ユダヤ人キリスト者たち、とりわけ祭司的背景を持つ人々ではないかと言わ れ、場所としてはエルサレム、ローマ、コリントなど諸説あります。ローマあるいはコリントなら、なおさらパウロ、ペテロなどを含めた指導者た ちのことを言っているのでしょう。 「彼らの生活の結末」(直訳=生活の出口)とは、指導者たち生活の最後(死)なのか、生きざまに現れ出た もの(outcome)なのかは不明です。ともあれ、指導者たちは多分世を去っていました。彼らの殉教のさまを見て、という意味を含んでいた とも言えるでしょう。 「思い出しなさい」も「ならいなさい」も、継続を示す現在形の命令です。その生き様を思い出し、その信仰と生き様にな らう生き方は、ずっと続くものなのです。 そのようなことを踏まえながら、簡単に指導者の信仰にならうことを学びたいと思います。今日は、特 に久保師記念礼拝であるので、久保師の生きざま、信仰に学ぶことを主眼にしたいと思います。 私たちは、指導者の信仰にならうべきです。
 それは、
  ①神のみことばを語った指導者だから、
  ②信仰を生きて見せた指導者だから、
  ③キリストを信じて生き、死んだ指導者だからです。

1.神のみことばを語った指導者 

彼らは、神のみことばを語りました。だからならうべきなのです。 キリスト者は、ただ自分が信じて永遠のいのちを得るだけで良いのではありま せん。それを伝える者となるべきです。 当時神のみことば(=聖書のメッセージ、キリストの福音のメッセージ)を語ることは、ローマ帝国やユ ダヤ人たちの迫害で、命の危険も意味しました。多分読者たちも知っているペテロやパウロも、命がけで福音を伝えました。だから、尊敬をもって その信仰にならうべきなのです。 今日の日本などでは、福音を伝えるのは命がけではないかもしれません。しかし、自分の人生そのものをささげ てみことばを語るということは、命を神にささげていることです。金持ちになる可能性も、世で大きな働きをして尊敬される可能性も、有名になる 可能性も捨てて、人生を神にささげています。久保師の最後の説教は、後からわかったことですが、まさに命がけでした。そこに、いつも以上の気 迫を感じ、感動を覚えたことでした。

2.信仰を生きて見せた指導者

 指導者たちは、生活の中で信仰を生きて見せました。だからならうべきなのです。 「生活の結末を見て」と言われます。先述のように、「結 末」(エクバシス=歩いて出ること、出口)は生活の最後(死あるいは殉教死)なのか、生活に現れ出た信仰なのかは明らかではありません。しか し、それは「よく見る」(つぶさに観察する)ことができたものでした。彼らは、信仰を生きて、日々の生活を通してキリストを信じる生き方を見 せたのです。だから、キリスト者として生きようとする者なら、ならうべきなのです。 私たちは、久保師の心臓手術や癌治療の闘病をすべて見た わけではありません。しかし、しばしば講壇から証しされました。抗癌剤治療の苦しさも吐露されました。完治を確認する検査も、麻酔をして長い 金属棒のような物を喉に入れる大変なものでした。入院中の寂しさも、そんな中で、主に信頼し続けた様子も証しして下さいました。肺炎が治り きってない中、高齢者施設での洗礼式に出かけて行かれました。 そのようにして、私たちは具体的な生活の中で信仰を生きるべきであることを教 えられました。だから、ならうべきなのです。

3.キリストを信じて生き、死んだ指導者 

指導者たちは、キリストを信じて生き、死にました。だからならうべきなのです。 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じ です」(8節)と、すぐ続いて語られます。指導者たちが信じて生きたのは、イエス・キリストです。そして、指導者を生かし、死に至るまで導き 通したキリストは、いつまでも変わらない同じお方なのです。だから私たちも、指導者たちの信仰にならって、いつまでも変わらないイエス様につ いて行くのです。 特に新約聖書がまだ執筆中で完成していない時代は、使徒たちが目撃したイエス・キリストが福音のメッセージのすべてでし た。使徒たちにならうことは、キリストにならうことだったのです(コリント人への手紙第一11章1節)。 もちろん今の私たちは、新約聖書を 持っています。そして、聖書を通してキリストに出会い、キリストから教えられ、キリストにならうことができます。しかし、今の指導者たちも聖 書によってキリストに出会い、教えられ、聖書を解釈する訓練を受けて、聖書の信仰を生きています。だから今日でも、指導者にならうことはキリ ストにならうこと。そのキリストは、いつまでも同じお方。だから、指導者にならうべきなのです。 それは、さまざまな異なった教えで惑わされ ないことにもつながります(9節)。指導者が伝え、彼自身生かされたキリストを信じ、いつまでも変わらないキリストについて行きたいと思いま す。








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