「何よりも喜ぶべきこと」

KFG 志木キ リスト教会  主任牧師 松木 充 牧師
 
 

だ がしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからと
 いって喜んではなりません。ただあなたがたの名が天にし
 るされていることを喜びなさい。」   

        (ルカによる福音書 10章20節)




 喜ぶことは人生に大切なことです。喜んでいれば、体まで健康になります。 本日のテキストは、伝道に派遣された七十人が帰ってきて、主イエ スに報告する場面です(17節)。彼らは喜んでいました。 主は、彼らの成功を否定しません。むしろ勝利を宣言します。しかし、それを喜ぶべ きではなく、彼らの名が天に書き記されていることを喜ぶように言われます(20節)。 本当に喜ぶことができるものは何でしょうか。
 ここでは、
  ①主にある成功体験(17節)、
  ②サタンに対する勝利(18~19節)などを拾い上げることができ ますが、
   主イエスは、
  ③天に名が記されていることを喜びなさいと言われます(20節)。
それらを順に見ていき、最後に、誰がその本当に喜ぶべきものを得られるのかを見たいと思います(21~24節)。


1.主にある成功体験(17節)

 成功体験は喜べるものです。しかも、七十人の弟子たちは、主イエスの指示通りに働いたら大成功だったのですから、それは大いに喜んでよいこ とです。信仰的な成功体験と言えるでしょう。 サッカーのアジア大会を見ました。日本代表チームは、アジアでずば抜けて世界ランクが高いイラ ンを準決勝で撃破しました。もちろん選手たちも、サポーターも大喜びでした。多くの人が優勝すると思っていましたが、決勝戦でカタールに完 敗、「準優勝など意味がない」と意気消沈してしまいました。この世の成功、失敗はそうしたものです。 私が卒業した学校はカトリックの中高一 貫校で、全国の医者の一パーセントを卒業生が占めているそうです。閣僚に入った先輩もいます。この学園、校歌では「セミナリオ」(神学校)と 歌われ、世界的教養人の育成をめざし、「ああ、この地より世界の果てに、愛と光をもたらしゆかん」と校歌が結ばれます。カトリック信仰に基づ き、神の愛と光を世界にもたらす器の育成をめざして開校されたのでした。しかし、私が恩師と仰いだ神父は、「それが、いつの間にか予備校に なってしまった」と嘆いておられました。 どれほどの成功を収めても、死の向こうまで持って行けるものは何もありません。それはキリスト者と しての成功でも同じでしょう。

2.サタンに対する勝利(18~19節)

 サタンに対する勝利の経験は、喜べるものです。主は、弟子たちの働きを通して、サタンが天から落ちるのを見たと言われます。勝利の宣言で す。これこそ喜ぶべきものではないかと思われます。 弟子たちは、イエスの御名によって病気を癒したり、悪霊を追い出したりしました。今で も、そのような働きに力を入れるキリスト者たちがいます。彼らは、イエス・キリストの御名によって命じて、悪霊を追い出したり、病気を癒した りします。もちろん、すばらしいことです。 あるいは、全く祈らないで主のみわざを見るという教えも目にしたことがあります。祈って事が起 こったら、「私が祈ったからだ」「熱心に祈ったからだ」と高慢になることがあります。だから、人間的努力を一切排除するということでしょう。 しかし、聖書は祈ることを教えます。 星野富弘さんのように、首から下が不随になった、ジョニー・エレクソンさんという方がいます。主を信じ て喜びに溢れていましたが、癒されればもっと主のために働けると思い、絶対に癒されると固く信じて癒しの集会に行きました。何の疑いも持って いませんでしたが、癒されませんでした。 サタンへの勝利は当然すばらしいですが、さまざまな教えの風に吹き回されてはいけません。悪霊が言 うことを聞いても、それを喜んではならないと主は言われるのです。

3.天に名が記されていること(20節)

 主は、天に名が記されていることこそ、喜ぶべきことだと言われます。 
 天に名が記されているとは、
  ①神に罪赦され、義とされ、救われていること、
  ②神の子ども、神の家族とされていること、
  ③永遠のいのちを与えられていることなどと言い換え ることができるでしょう。 信仰生涯は競走にたとえられます(へブル人への手紙12章1節)。キリスト者の信仰生涯の競走は、マラソンとは ルールが違います。イエス様がともに走り、背負って走って下さいます。また、主にある信仰の仲間たちがどれほど助けても良いのです。主があら ゆる方法を用いて導いてゴールインさせて下さり、「良くやった!」と勝利の冠を下さいます。それが、天に名を記されている者の特権、全くの恵 みです。だから、これほど喜ぶべきことはないのです。 岩の上に建てた家と砂の上に建てた家のたとえがあります(マタイ七24~27)。岩の 上の家が嵐にも洪水にも耐えられたのは、建て方や設計が良かったからではありません。ただ、岩(キリストとそのみことば)の上に建てたから、 大丈夫だったのです。私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえって、救って下さるイエス・キリストを信じて生きるだけでよいのです。だか ら、救われていることこそ、何より喜ばしいことなのです。  それでは、天に名が記される者とはどんな人でしょうか。主は、弟子たちを「幼子」(21節)と言われます。それが、御子イエスによる救いを知らせようと父なる神がお定め になった人です(22節)。他の箇所で、主は言われます。「まことにあなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、 決してそこに、はいることはできません。」(一八17) 弟子たちは、預言者たちが見たいと願った救い主見た幸いな人たちです。しかし、私た ちも、聖書を通してイエス様を知ることができる幸いな者です。幼子のように素直に、救い主イエス様とそのみ救いを受け入れ、本当に喜ぶべきも のをいただきましょう。








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