主につい て行く」(弟子の道

KFG 志木キ リスト教会  主任牧師 松木 充 牧師
 
 

すると イエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてか
 ら、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』

         (ルカによる福音書 9章62節)





 キリストの弟子とは、キリストについて行く人と言うことができるでしょう。それは、キリスト者、クリスチャンとして歩む道とも言えます。 ちなみに、「弟子となしたま え」(聖歌433番)と歌いますが、元の英語の歌詞では「弟子」はクリスチャンです。 「ついて行く」(57節)、「ついて来なさい」(59 節)。「従います」(61節)は、すべて「ついて行く」(アコルーテオー)という同じ動詞です。 ここには、主イエスに自分からついて行くと 言う人(57、61節)、主イエスに「ついて来なさい」(59節)と言われる人、合わせて三つのケースが紹介されます。マタイ八19~22に 並行記事があります。マタイは教会教育として弟子の道を教え、ルカは、ユダヤ的な師弟関係になじみのない異邦人信者に、弟子のあり方を教えて いるのでしょう。 ここに出てくる三人の人たちは、その程度はともかく、主イエスをそれなりに信じ、ついて行きたいという志を持っていまし た。しかし、それぞれに問題点を主に指摘されています。 これらのケースを通して、どのようにしたらキリストについて行けるのか、弟子が通る べき道はどのようなものかを探りたいと思います。 私たちは、弟子としての道を通って行くことによってこそ、主について行くことができるので す。
 その弟子の道とは、
  ①困難な道、
  ②神の国最優先の道、
  ③神の国へと前進する道です。

1.困難な道(57~58節) 

主について行く弟子の道は、困難な道です。 最初の人の場合は、自分から主について行くと言います。 「あなたのおいでになる所なら、どこに でもついて行きます」(57節)と言うことばには、強い意気込みがありますが、かなりのぼせ上がっているようでもあります。 主は、御自身が 歩んでおられる道の困難さを語られます(58節)。もちろん、カペナウムなどには主が滞在する家はあったと思われます。しかし、この時は十字 架をめざしてエルサレムに上る途上でした。そして、サマリヤの町でも拒否されたばかりでした(51~56節)。 十字架の道は、言うまでもな く困難な道、命を捨てる道です。そして、主は弟子たちにも自分の十字架を負ってついて来ることを望んでおられます。意気込みや、心意気、志な どで進んで行ける道ではないのです。 主について行くという意気込みは、ペテロたち十二弟子(十一弟子)にもありました(22章33節)。し かし、彼らは十字架を前に逃げ去り、ペテロは捕らわれたイエスの後について行きますが、人に問いただされると、イエスを知らないと三度言いま した(22章57、58、60節)。 そのような弟子たちが、後に命をも惜しまずキリストを宣べ伝えるようになるのは、復活のキリストに出会 い、その罪の赦しを体験し、再び使命を与えられ、ペンテコステの聖霊に満たされてからです。意気込みや心意気、志だけでは、主について行く困 難な道を進んで行くことはできません。罪赦され、救われ、聖霊に満たされるという恵みの体験を経てこそ、真のキリストの弟子となれるのです。    

2.神の国最優先の道(59~60節)

 弟子として通る道は、神の国を最優先する道です。 二番目の人は、主の方から「わたしについて来なさい」とお声をかけます。 彼は、「まず 行って、私の父を葬ることを許してください」と言います(59節)。主は、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行っ て、神の国を言い広めなさい」とお答えになります(60節)。 父を葬ることは、ユダヤ教では最優先のことでした。破門された人(村八分状 態)に対しても、葬儀は近所の人たちが協力してくれました。 しかし主イエスは、神の国を言い広めることが、それより優先すべきことだと言わ れているのです。価値観の転換です。 なお、ここでは、この人の父親はまだ死んでいないという解釈をする人がいます。主も、生きている人たち でも「死人たち」と呼び、「死人たち」と一般論的な表現をしておられるので、十分可能性があります。 その場合、父が死んだら従って行きま す、ということになります。しかし、神の国(永遠のいのち)を得ること、それを伝えること以上の優先事項はないのです。家族がどうでもよいの ではありません。父母を敬うこと、子どもを愛することは新約聖書でも明確に教えられています。父親に対しても、最も大切な神の国の福音を伝え るべきなのです。それが弟子の道です。 特に家族の場合、福音を伝えるには知恵が必要です。無理強いせず、愛をもって神の愛を現わし、忍耐強 く証ししていくことが肝要です。

3.神の国へと前進する道(61~62節)

 弟子の道とは、神の国へと前進あるのみの道です。 三番目の人は、やはり自分からついて行くと言いますが、家に帰って家族に別れを告げてか ら、と言います(61節)。これも家族の問題ですが、前の人との違いは、後ろに心引かれている点です。神の国をめざして前に進んで行く決心が 固まっていないのです。 主は、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は…」と言われます(62節)。私も、日本式の手で地面に突 き刺す鋤を思い浮かべて、この意味がわかりませんでした。当時のイスラエルの鋤は、牛などの家畜に着けて引っ張らせました。牛を操って前に進 もうとしている時に後ろを振り向くと、まっすぐに進んで行けないのです。前だけを見て進むべきことを、主はこの農作業にたとえられたのです。  私たちはどうでしょうか。家族も連れて前に進んで行きたいものです。主にまっすぐついて行く姿を見せて、家族にも証ししたいものです。







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