ク リスマスメッセージ

KFG 志木キ リスト教会  牧師 松木 充 牧師
 
 

「その星を見て、彼らはこの上なく喜んだ。」

       (マタイによる福音書 2章10節)





 クリスマスは、キリスト者にとって、喜びのシーズンです。神の御子、救い主イエス・キリストが、人としてお生まれ下さったお祝いだからで す。
 クリスマスは、一年で一番日が短い冬至の頃、12月25日に祝われます。この時期は、昔から心も冷え、気持ちも暗くなったようです。そのよ うな時期に救い主のおいでをお祝いするのは、意義深いことです。
 クリスマスの喜びは、最初に羊飼いたちに与えられました。次が、東方の博士たちです(10節)。博士たちは、東から、遠い道のりを星に導か れてやって来ました。博士たちは、イエスのおられる所を示す星を見て、「この上なく喜んだ」と言われます。直訳は、「彼らは、大きな喜びを、 非常に(激しく、ひどく)喜んだ」。大変な喜びようだったのです。もちろんそれは、今日的に言うならば、キリストとの出会いの喜びです。
 博士たちは、どうしてそこまで喜ぶに至ったのでしょうか。そこを探り、私たちも、クリスマスの大きな喜びを持つ者となりたく思います。
 それは、
  ①求めて出会うことによって、
  ②神に導かれて出会うことによって、
  ③キリストを主とすることによって、と言えるでしょ う。

1.求めて出会う喜び(1~2節他) 

 博士たちは、救い主を求めて出会ったから、大きな喜びがありました。
 彼らは、救い主を捜し求めて、長い道のりを旅してきました。彼らの故郷は、バビロンかペルシャか明記されませんが、その旅程は 1500~1600キロメートルにものぼるでしょう。そのような旅には危険が伴うので、ラクダを連ね、キャラバンを組んで旅したことでしょ う。費用も莫大なものだったはずです。その上に、高価な贈り物も携えていました。
 旅には、長い月日を要したに違いありません。彼らが幼子イエスに会った時、星の出現から二年近くたっていました(16節)。幼子イエスの一 家は、すでに家に住んでいます(11節)。
 そうして彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と言いながら、エルサレムにやって来ました(1~2 節直訳)。熱心に捜し求めていたのです。
 マタイが彼らの国を特定しないのは、救い主を求めて信じる者は、誰でも救われることを示すためでしょう。福音書の最初に、異邦人である博士 たちの来訪を記すマタイは、大宣教命令で福音書を閉じます(28章19~20節)。
 反対に、祭司長たち、学者たちは、キリストの生まれる場所を知っていたのに、博士たちと拝みに行こうとはしません。ヘロデ王に至っては、 「ユダヤ人の王」を殺そうとします(13~18節)。
 ヘロデから逃れたヨセフ一家は、エジプトに逃れます(13~15節)。それは預言の成就であり、新しいイスラエルとして出エジプトを経験す るためでした(↓バプテスマ、荒野の四十日)。同時に、かつて神の民を奴隷としたエジプトが救い主をかくまい、かつてイスラエルを支配したバ ビロン・ペルシャからイエスを拝みに来る、しかしユダヤ人たちは、イエスを拒否するという、壮大なアイロニーをマタイは描いたのです。
 どれほど富と権力を持っても、どれほど人生に満足していても、人間の力ではどうにもならない問題があります。救い主を求めたいものです。

2.神に導かれて出会う喜び(10節)

 博士たちは、星に、すなわち神に導かれて救い主に出会ったから、大きな喜びがありました。博士たちは、星の導きがあったからこそ、救い主に 出会えました。大きな喜びがあったのは、そのためです。
 この不思議な星については、いろいろと議論される。紀元前七年に、土星と金星(木星?)が重なったという記録があります(火星が加勢に来た という話も)。あるいは彗星説もあります。しかし、家まで導くのであれば、神の導きと言うほかありません。確かに神が導いて下さったと確信で きたからこそ、博士たちはこの上なく喜んだのです。
 私たちが教会へと導かれ、キリストを信じるのは、私たちの求め以上の神の導きがあります。勝手に信じたのではなく、神が主権をもって導き、 救って下さったとわかれば、私たちは神の御手の中で安らぐことができます。

3.キリストを主とする喜び(11節)

 博士たちは、イエスを救い主として求め、出会い、そして信じました。だから、大きな喜びがあったのです。
 「ユダヤ人の王」と言いますが、彼らは、幼子イエスを礼拝します(11節)。「ユダヤ人の王」は救い主の称号と認識していたと思われます。 その知識は、占星術からだけでなく、バビロン捕囚以来、バビロンやペルシャに多く住んでいたユダヤ人からの情報もあったでしょう。バビロンに は、エルサレムやアレキサンドリアと並び立つユダヤ教の伝統がありました。
 彼らは、イエスに謁見したり、丁重に挨拶したりしたのではなく、ひれ伏して礼拝しました。神に向かう姿勢です。そして、高価な贈り物、黄 金、乳香、没薬をささげました。この贈り物にも、彼らの信仰が現わされています。
 黄金は王の金属です。乳香は、祭司が焚いたもの。没薬は、苦みがあって、薬として用いられました。主イエスが十字架にかかられる時、苦み (没薬)を混ぜたぶどう酒が与えられました。また、死体に塗るものでした。
 もちろん、彼らが幼子イエスの生涯を見通したとは思えません。しかし、心から救い主を求め、信じて拝むために用意したからこそ、不思議に も、この上なくふさわしい贈り物となったのです。たとえ彼らの信仰が不完全でも、後の十字架・復活で、主は彼らをもお救いになったでしょう。
 イエス・キリストを自分の主としてひれ伏し、「イエスは主です」と告白するときに、私たちの心は変えられ、この世のものではない、聖霊によ る喜びが溢れます。心に主イエスを主として宿すとき、私たちは本当のクリスマスの喜びに溢れることができるのです。







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