「不信仰な世からの救い」(変貌の山の下で)


 KFG志木キ リスト教会  牧師 松木 充 牧師
 

 

「イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な曲がった今
 の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あな
 たがたにがまんしていなければならないのでしょう。あ
 なたの子をここに連れて来なさい。』」

        (ルカによる福音書9章41節)





人間には、できることとできないことがあります。例え ば、病気の人のために祈って、癒されることもあれば、癒されないこともあります。祈った通りにならないこともありますが、必ず神はみこころを 行われるのですから、信じて、願いをそのまま申し上げればよいのではないでしょうか。
 本日の聖書箇所は、主イエス、ペテロ、ヨハネ、ヤコブが変貌の山から下りてくると、群衆に迎えられ、残った弟子たちが悪霊を追い出せなかっ たという状況になっていました。山の上での天を垣間見るような出来事から一転、現実の厳しさ、難しさです。私たちも、礼拝や聖会から現実の日 常へ戻るとき、「現実は厳しい」という思いになることがあるかもしれません。
 この出来事も、ペテロの信仰告白、変貌に続いて、マタイによる福音書17章14節~20節、マルコによる福音書9章14節~29節にも述べ られています。マタイ、マルコ、ルカ(共観福音書)がすべて述べる記事は、重要な出来事です。それらを比較してわかるのは、一番短い福音書で あるマルコの記述が最も仔細にわたって書かれており、マタイ、ルカはより簡潔ということです。
 マルコは、子どもの父親も含めての不信仰、そこに信仰を与える主イエスを描き(九24)、「祈りによらなければならない」と締めくくられま す(同29節)。マタイは、「あなたがたの信仰が薄いからです…からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移 る…」(一六20)と結びます。ルカは、十字架と復活の予告で終わります(43~45節)。
 マルコは、父親、弟子たち(群衆も?)を含めた不信仰に焦点を当て(イエス・キリストの福音)、マタイは弟子たちの信仰の薄さに関心があり ます(弟子訓練の福音書)。ルカは、やはり弟子たちの不信仰に焦点を当てていますが、マタイとは違ったこの出来事の結び方をしています。そこ には、他の福音書に共通した教訓もあれば、ルカ独自が示す教訓もあります。そのようなものを拾い上げながら、不信仰から信仰へと進み、どのよ うにキリストの解決を受けていくことができるのかを探ってみたいと思います。
 説教題に「救い」と入れました。それは、罪と滅びから救われることもあるし、旧約のように、神の介入による解決、救出も含んでいます。
 私たちは、信仰によって、困難な問題へのキリストの解決を受けることができます。それは、①見えない主に信頼することにより、②主に問題を 持って行くことにより、③不信仰を解決する十字架によります。

1.見えない主に信頼する(37~40節)

 第一に、主イエスがそこにいなくても、見えない主に信頼することです。
 先述の通り、イエスとペテロ、ヤコブ、ヨハネが山に登っていた間に、残りの弟子たちが悪霊を追い出せない事態が起こっていました。弟子たち は、悪霊を追い出し、病気を癒す権威を与えられていたはずです(九1)。それは、弟子たち自身の権威ではなく、主イエスの権威でした。その派 遣の際、弟子たちは主イエスがおられないところでも悪霊を追い出したり病気を癒したりしたはずです。ここでそれができないのは、不信仰と言う ほかありません。ちょっとやってできなかったから不信仰に陥ったのでしょうか。
 「いつまで一緒にいなければならないのか。いつまで我慢できようか」と主は嘆かれます。それは、十字架・復活の後を見据えての発言です。も ちろん、その後の教会は、聖霊によって臨在する主イエスに信頼して歩んで行かなければなりません。今日も同じです。目に見えなくても、必ず信 じる者とともにいて下さる主に信頼する必要があるのです。
 主イエスは、復活後いっさいの権威を与えられました(マタイによる福音書28章18節)。聖霊によって臨在される、この主に信頼することが 必要なのです。

2.主に問題を持って行く(41~43a節)

 第二に、主イエスのところに問題を持って行くことです。「あなたの子をここに連れて来なさい」と主は言われました。
 連れて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒してひきつけさせるなど、猛威を振るいます(42節)。主イエスのもとに問題を持って行っても、時には 悪化したように思えることもあります。しかし、主にお任せしていると、主が解決へと導いていって下さいます。
 キリストの権威と力に信頼し、目に見えない主の御手に問題をおゆだねし、お任せすることが必要なのです。

3.不信仰を解決する十字架(43b~44節)

 何より大きな問題、私たちの不信仰を解決して下さるのは、主イエスの十字架です。
 ルカに独特なのは、この出来事を十字架の予告で締めくくることです。マタイ、マルコはこの出来事の前後に十字架・復活の予告もしくは示唆す ることばがありますが、この出来事とは別のことのように記します。つまり、ルカは、不信仰の解決はキリストの十字架にあることを、他の福音書 よりも明確に示していると言えるでしょう。
 不信仰は罪です。「曲がった(今の世)」とは、動詞からできたことばで、「曲げられた」という意味です。「不信仰」と並べられることから、 不信仰をさらに説明、補足するような意味でしょう。つまり、曲げられているのは神との関係であり、正しいことから曲げられていることです。罪 と悪魔の働きで、ねじ曲げられてしまっているのです。
 参考までに、旧約聖書ヘブライ語でも、罪と同義語の「不義」(アヴォーン)は、曲がっていることです(文語訳「邪曲」)。
 だから、十字架で罪を赦されることこそ、不信仰の最大の解決です。信者でも未信者でも、主をまっすぐ信じられないことは罪です。それを赦 し、きよめる主の十字架のもとに、不信仰な私たち自身を持って行きたいと思います。そこにこそ、すべての解決があります。








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