「主のご計画」(信仰の向こう岸へ) 


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「そ のころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょ
 に舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。』と言わ
 れた。」

        (ルカの福音書 8章22節)





いつものように続く毎日、そこに突然起こる試練、困難 ――。「主よ、何故ですか」と問いたいところにも、主のご計画、ご目的があります。
「そのころのある日」とは、ルカのみの記述です。弟子たちが主イエスとあちらこちらへ行って伝道していた日々(八1)。いつもの毎日。「湖の 向こう岸へ…」も、いつものことと思われたかもしれません。
しかし、湖上で激しい嵐――。山に囲まれたすり鉢状のガリラヤ湖は、天気が変わりやすく、暴風が吹きおろし、吹き上げる突然の嵐も起こりまし た。漁師が多い弟子たちは、その危険性を熟知していました。彼らは驚き恐れましたが、主は平然と寝ておられます。
弟子たちは恐れ、あわてふためいて主を起こします。主は、風と荒波をしかりつけて静められ、「あなたがたの信仰はどこにあるのです…」(25 節)と問われ、弟子たちは、このお方はどんなお方だろうかと驚き恐れます。そして到着した向こう岸には、レギオンと言う多数の悪霊に取りつか れた人がいます(26節以下)。
ここに見るのは、危険があるのを承知で弟子たちとともに出発された主のご計画、ご目的です。それは、弟子たちの信仰の訓練でした(25節)。 信仰の向こう岸へ渡らせるような経験だったのです。
主に従って行ったがゆえの試練、大変な困難――。しかし、そこには主の深いご計画があります。それは何でしょうか。

1.主イエスの力を示す計画(24節)

あえて嵐の起こる湖へと漕ぎ出させた主のご計画は、世界を支配する主の力を示すことでした。
主は、風と荒波を「しかりつけられた」(エピティマオー)と言われます。単にお命じになったのではありませんでした。それは、の自然現象の背 後に、人を恐れさせ、信仰を失わせようとする悪魔の働きがあったことを暗示すると思われます(→25節「あなたがたの信仰はどこにあるので す」)。
しかし、主イエスは自然現象をも支配するお方です。天地はこの方を通して造られました(ヨハネの福音書1章3節)。起こってくる自然現象を通 して、悪魔は信仰を失わせようとします。しかし、その上から支配しておられる主を見上げるべきことを、主はこの奇蹟で教えられたのです。
2011年の大震災以来、日本は自然災害に苦しめられています。広島の地滑り、熊本地震、大阪の地震に続く西日本の水害…。苦しんでいる人た ちに寄り添い、助けるとともに、その上から支配しておられる主を見上げるべきことを私たち自身覚え、主の慰めと励ましを届けるべきでしょう。

2.弟子たちの信仰を確立する計画(25節)

嵐の起こる湖に漕ぎ出させた主のご計画は、弟子たちの信仰を確立することでした。
「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と、主は問われます。。弟子たちがまず知らなければならなかったのは、信仰などないことでした。
人生に試練は付き物です。一つ試練を乗り越えて落ち着いた頃、また次の試練…、信仰などないことを痛感させられるのが、信仰者の現実かもしれ ません。しかし、まさにそこが、信仰の確立、成長のスタートなのです。
弟子たちは、やがて主の復活・昇天後、迫害の嵐に、目に見える肉体をお持ちの主がいない状態で遭遇します。もちろん、そこに聖霊の助けはあり ます。しかし、聖霊によって臨在する、見えない主イエスに信頼する信仰は必要です。風も波も主に従った出来事は、後々まで彼らの心に残り、試 練のたびに思い起こしては励まされたことでしょう。
「あの主が、聖霊によってともいて下さる」という信仰は、彼らをどんな嵐の中でも支えたに違いありません。私たちも、人生の嵐に遭遇するたび に、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」という主のことばを思い出し、奮い立って信仰を持ち続けたいと思います。

3.大きな救いを行う計画(26節以下)

主のご計画は、嵐を静め、弟子たちの信仰を確立するだけで終わりません。さらに、向こう岸で行われる救いのみわざがありました。(中途半端な がら、27節まで朗読していただいたのは、それを示すためです。)
「ゲラサ人の地」(26節、→マルコの福音書5章1節)は、湖のそばにある「ゲルゲサ」かもしれません(マタイは「ガダラ人の地」(マタイの 福音書8章28節)とします)。
そこにいたのは、着物も着ず、墓場に住んでいる悪霊につかれた人でした。鎖や足かせでつながれても断ち切ってしまうほどでした(27~29 節)。
悪霊の名は「レギオン」(30節)。これはローマの軍団の単位で、六千人の大軍団。多数の悪霊だったのです。後に、おびただしい豚の群れに入 ることを主に許され、それらの豚が湖になだれ込んで死ぬほどでした。
マタイは「レギオン」を記しません。マルコはネロの迫害があったローマで書かれ、ルカは、さらなるローマ帝国の迫害が予感される時期に書かれ たと言われます。マタイはユダヤ人に向けて書かれたということで、記述の目的が違うからでしょうか。前述の嵐と併せて、マルコとルカはローマ の迫害を示唆しているのかもしれません。そして、ローマの大部隊に匹敵する悪霊をも命令ひとつで動かされる主イエスを描いたとも考えられま す。
この壮絶な救いのわざを見ることも、弟子たちの信仰の訓練となったに違いありません。そして、国家レベルの迫害の中でも、「レギオン」をも支 配し、救ってしまう主に目を向けたのではないでしょうか。事実、ローマ帝国はキリスト教を滅ぼすことができず、やがて公認、国教とします。
私の父は、クリスチャンとして戦争(殺人)を避けるために医学校に進み、南満州鉄道の委託生として給与までもらって医学を学び、卒業直前に終 戦、何の返済義務もなく医師になりました。そして、行く先々で福音を伝えました。戦争という嵐も、神のご目的をとどめられなかったのです。





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