「この巻き物を食べよ」
((神のことばを腹に満たせ)

      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 



「『人 の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ご
 しらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれ
 を食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘
 かった。」       

      (エゼキエル書 43章3節)




1.ヨシヤ王によるリバイバルの不徹底

BC639年、エレミヤが生まれた頃、ヨシヤわずか8才で王位についた(彼の父アモンを暗殺した者たちを粛清した人々による運動の結果であっ た【第二列王記21章24節、 第二歴代記23章25節】。)彼が16才の頃、神殿修復中に、モーセの律法の書が発見され、(第二列王記22章8節~/第二歴代記34章15節~)、ヨシヤは主の前にへり くだり、自分の衣を裂いて、泣いて祈り、宮の内外にあった偶像を取り除き、それに仕える者たちを粛清した。確かにモーセの書の発見によって、 信仰復興がなされたが、残念ながらこの改革は不十分に終わった。それはマナセの悪政は人々の思いから真の神を全く忘れさせていたので、ヨシヤ の改革は思うように進まなかった。そうこうしているうちにスクテヤ人の侵入があり疫病のように西アジア一帯に広まった。パロのカルケミシュ進 攻 (第二歴代記35章20節~24節)で、アッシリア帝国に最後の壊滅的打撃を与えた。この時、パロ攻撃に義務的に向かって、主のみこころに反した結果、ヨシヤはメギドで戦 死したのである。
まさに、一時的に大さわぎしても、表面的改革では、真のリバイバル(信仰復興)とは言えない。「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を 引き裂け。(ヨエル書2章13節)、
もし、ユダの民が、「心を引き裂」いて、悔い改め、宗教改革が徹底していたら、バビロンへの捕囚の民となる必要はなかったであろう。冒頭の聖 句は、主が預言者によって、真の悔い改めとは、主なる神とのいのちの関係で、みことばを腹に蓄え、聖書を体験することであると言うのである。

2.この巻物を食べて腹を満たせ

黙示録にも「私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。『それを取って食べなさい。それはあ なたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』」(10章9,10節)とあり、エゼキエルにも、主は『この巻き物で腹ごしらえを し・・・』「・・・それを食べた。・・・私の口の中で蜜のように甘かった。」と、同様の比喩的表現がされている。
巻物とは聖書(神のことば)で、「食べよ」(8、三1~3)と命じられる。読め!とか、記憶せよ!ではない。
高校時代に受験生で、英語辞書を記憶すると、その頁を食べる人がいた。しかし、この「食べよ」には、神の真理のみことばを鵜呑みにせず、体験 することを意味している。
聖なる動物の羊や牛の特質には反芻する姿がある。草茂る地面の草を、まず、むしり取るようにほおばり、満腹になると、腰をおろし、目を細め て、青汁をたらしながら、もぐもぐやっている。やがて、噛み砕いた塊を、さらに奥の胃袋にもどし入れる。
そして、牛も、羊も、白いミルクを供給する。小羊も小牛も、幼児も養われる。
聖書は読むだけでなく、心に蓄え、時に応じて、思い出して、ねりはみ、瞑想し、新鮮な甘さを味わい「腹を満た」することが求められている。黙 示録には「腹には苦い」とあるのは、みことばの深さ、甘さの反面を意味している。エゼキエルには「その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌、 嘆き、悲しみがそれに書いてあった。」(二10)とあり、みことばは信じる者には喜び、平安、感謝をもたらすが、信じない者には苦さ、悲しみ をもたらす(信仰のゆえの戦いもある。)。
マルチン・ルターは「義人は信仰によって生きる」 (ローマ人への手紙1章17節)と言う真理に目が開かれた時、それはすばらしい蜜の甘さであった。しかし、その後、それに反対する者たちとのいのちがけの戦いがあった。そ れはヴォルムスの議会の証言に要約される。
「私の良心は、これらの神のことばによって捕られています。私は何事かを取り消すことはできません。また、取り消そうとも思いません。という のは、人の良心に反して行うことは安全でもなく正しくもないからです。私はここに立っています。私はこれ以外のことをすることができません。 神よ、私を助けたまえ。アーメン。」 (参照・ローマ人への手紙12章2節)。

3.あかし人の使命(三 7~11)

預言者とは、「みことばを預る者」で、今日では、伝道者や牧師だけでなく、主から預った福音メッセージを身近な隣人に遠慮なく語るべきであろ う。たとえ、「鉄面皮で、心がかたくなな」人々であっても、私たちは受けた神の恵みを家族や隣人にあかしすべきであろう。そのために、「額を 火打石よりも堅い金剛石のようにする・・・彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」(9)と、主は語られる。私たちは主が愛と恵みをもって、 みことば体験をさせて下さったのであるから、各人が隠さず、その真理(メッセージ)を「恐れず、ひるむことをなく」わかち与える時に、主のみ わざは拡大していく。
初代教会でも、ステパノやアクラとプリスキラなど、ただの信徒であっても、素晴らしいあかし人で、導き手であった。神に背を向けた者たちの顔 を恐れず、みことばを味わい、満腹になって、溢れるものをもって、大胆に信仰を働かす時、この世の捕囚となっている人々をも解き放す恵みに与 るのである。
エゼキエル(神に強められた者)は主に捕えられた者で、栄光の器となるのである。





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