「ビジョンの預言者」
(捕囚の民を導く)

      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 



「人 の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわ
 ち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、そ
 の先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうであ
 る。」

        (エゼキエル書 2章3節)




1.捕囚の民の中で 

イザヤは神の臨在に触れた経験を哲学的に述べて、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あな たがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章9節)と、神の道と、人の道の違いを語っている。
それに対して、エルサレムが陥落して、一万人の捕囚の民と共に、異教の地、ケパル川のほとり(BC597年)、強制収容所で生活しつつ、運河 の造成に労していた時に、エゼキエルは神のビジョンをいただき、預言者活動へ召された(捕囚五年から~)。彼はエレミヤの弟子(祭司)であっ たが、捕囚の民と共に生活しつつ、神の幻(ビジョン)をいただき、絶望的な生活をしているユダの民に、希望のメッセージを語ったのである(ニ セ預言者は数年もすれば、再び帰還できるなどと、偽りの希望を語っていた)。
エレミヤはエルサレムで泣きながら語る預言者で、涙の祈り手(祭司)であった。しかし、エゼキエル(神が強くされるの意味)は捕囚の人々と共 に、苦楽を共にしながら、選びの民がいかにかたくなであっても、神のことばを忠実に語る使命があった。まさに人の子となって、人生のあらゆる 悩み、苦しみを通られたイエス・キリストの姿を見る(ヘブル人への手紙4章15節)。私たちも、本当にキリストの救いに与った者であるなら、 どの様なきびしい条件下でも、最も近い隣人に、そのすばらしい恵みを共にわかちたいと思う。

ニ、ビジョン(幻)を見る(一1~28

「ビジョン」とは人が勝手に描く夢、幻とは違う。これは神の啓示で、神が必要に応じ御旨にかなう人に示す(神が人を動かす時)ものである。
このビジョン「神々しい幻を見た。」(一1)時、エゼキエルは30才(妻もいた〈二四18〉)、「はっきりと主のことばがあり、主の御手が彼 の上にあった。」〈3〉と、ビジョンを見、主の声を聞いている。いつの世にも神に用いられた器は、上からのビジョンを示されている。
使徒パウロは「この天からの啓示にそむかず、」(使徒の働き26章19節)とあかしし、モーセは燃える柴の中から主の声を聞いた(出エジプト 記3章3節)。「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら・・・」(4)とある風、雲、火は 神の臨在のしるし(象徴的姿)で、「その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、」(5)とは理想のしもべ「ケルビム」(4~25)の 姿で「四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」(6)、イザヤは六つの翼をもったセラフィム(イザヤ書6章2節)を見て「二つで顔をおお い」、「二つで両足をおおい」、「二つでとんでおり」(2)と言う姿をみて、神の聖性を知らされ、自らの汚れを悟った。
人は神に背を向け、遠く離れすぎた地にへばりついた生活のゆえに、神の聖なる姿、その永遠性、全能の神の力強さなど見失っている。人も神に似 せて造られていながら、その本来のイメージを忘れて、ゆがめている。

3.四つの顔(人間/獅子/牛/鷲)

①「人間の顔」とは、ルカの福音書で「理想的な人間像であるキリストを 描いてい
 る」
と言われる。
②「獅子の顔」とは「王なるキリストを描くマタイの福音書で、
③は「牛の顔」とは、神と人に仕える「しもべなるキリストの姿」マルコ の福音書
 を表
現している。
④「鷲の顔」とは、ヨハネの福音書で「神の子キリスト」を描いていると 言われ
 る

主なる神は、偶像の神に囲まれた異教の地で、エゼキエルが真の希望のメッセージを語ることが出来るように、確かな神のビジョンを見せられたの である。暗い時代(聖都の陥落、バビロニヤでの捕囚生活)に、もし、天からの示しがなかったら、70年後のバビロンからの解放と、それに続 く、救い主の到来を預言することは出来なかったろう。
ヨハネ黙示録につながる未来の「新しい天と地」を思わせる壮大な救いのビジョン、しかも力強い権威と永遠性、創造性の迫力は反逆やかたくなな 人々をも変える聖霊の躍動の前には、偶像神や人の力の弱小であることを感じさせられる(○参黙示録4章23節)。
H教団の四国教区を生み出し、多くの人々を導いた青野雪江牧師は、私の家内も、この小柄な婦人牧師に導かれて、クリスチャンになり、伝道者と して献身した。
青野師は戦後十年後頃、愛媛県を中心に、せっせっと個人伝道によって、人々を導き、百二十名以上の人々を、海辺に集め、K牧師とR宣教師に洗 礼をさずけていただく時をもった。その時、交互とは言いながら、腕が疲れたと言う話を後にK牧師から聞いた。
青野師は商家生れの普通の主婦であったが、夫に先立たれ、女学生の制服を縫製する仕事を忙しくやっていたが、夫の看病から、結核を病み、困っ ている時、かつての知人が彼女をご自分の家に引きとって、面倒を見、安らぎの一時を提供したのである。その時、知人がクリスチャンとなり、青 野さんのために祈り、十字架の身代わりによる救いを経験したので、喜びと平安を得て、しかも病も癒されて、帰宅し、仕事は繁盛していた。
ある夜、彼女は多くの人々が死の川へ列をつくって亡びゆく姿を夢に見て、人々を救うために仕事を閉じ、伝道者としてふみ出し、百数十名の人々 を導く結果を生み出した。主がビジョンをもって迫り、生涯現役で伝道しつづけた。





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