「いのちを与えるイエス」(ナインのやもめの息子)


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木充 牧師
 



「そ して近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人
 たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起
 きなさい。』と言われた。」

       (ルカの福音書 7章14節) 




6月23日は、沖縄戦没者追悼記念日でした。いのちの尊 さを考えさせられましたが、同日行われた「父と母に感謝する会」で園児や幼子たちの発表を見て、生き生きと生きるいのちのすばらしさも思った ことです。
この箇所は、ナインのやもめのひとり息子が死んで、主イエスによみがえらされた出来事で、他の福音書にはない記事です。主イエスが死人をよみ がえらせたのは、新約聖書中3回です(本箇所、ヤイロの娘、ルカの福音書8章40~56節、マルコの福音書4章21~34節、マタイの福音書 9章18~26節、ラザロ、ヨハネの福音書11章章)。うち2回はルカが記しています。
やもめの死んだ息子は、「ひとり息子」(モノゲネース)でした。ヨハネがイエス・キリストに用いる語です(ヨハネの福音書1章14,18節、 3章16,18節、ヨハネの手紙第一4章9節)。ここではヨハネほどの神学的意味はないと思われます。
ただ、死人がよみがえったもう一つの例、ヤイロの娘も「ひとり娘」(モノゲネー、八42)で、イエスの山での変貌の出来事の後、悪霊を追い出 してもらった息子も、「ひとり息子」でした(九38)。ひとり子の死や病気で苦しむ親を、主イエスはあわれまれました。それだけ悲しみや苦し みが大きかったからでしょう。無論、イエスご自身が神のひとり子であられたことと全く無関係とも言えないでしょう。
この奇蹟は、イエスが神の子救い主であることを示すものですが、イエスが永遠のいのちを与える救い主であることをも象徴的に示しています。
ちなみに、同じルカが書いた使徒の働きにおいても、ペテロとパウロは、一度ずつ死者をよみがえらせています(使徒の働き9章40節0、20章 10節)。この青年も、ヤイロの娘も、ラザロも、ペテロによってよみがえったタビタも、パウロによってよみがえった青年ユテコも、皆地上の生 涯を終えて、やがては死にました。それらの奇蹟は、人間のいのちは主イエスの手の中にあること、イエスにある永遠のいのちの希望を保証するも のです。
それでは、救い主イエス・キリストは、どのようにして私たちにいのちを与えて下さるのでしょうか。
 それは、
  ①イエスのあわれみによって
  ②イエスのみことばによって
  ③イエスによる回復によってです。

1.イエスのあわれみ(13節)

いのちを与えるのは、主イエスのあわれみです。
「かわいそうに思い」(スプランクニゾマイ)は、「あわれんで」とも訳され、スプランクノン(腸)から派生した語です。腸が痛むような愛で す。単なる同情ではなく、痛みを伴うほどのあわれみ、十字架の愛に通じるものです。
 ここでルカは、イエスを「主」(キュリオス)と呼びます。それは旧約で「主」(新改訳では太字の主)と呼ばれる神を意味します。奇蹟を見た 人々は、「大預言者」(16節)などと言いますが、ルカは神としてイエス・キリストを提示します。この主イエスだから、いのちを与えて下さる のです。
世には、私たちの心を慰め、励ましてくれるものもあります。しかし、永遠の慰め、励ましは、生ける神が、救い主、神に等しい御子イエスが、私 たちを心底あわれんでいて下さることです。

2.イエスのことば(14節)

いのちを与えるのは、主、救い主イエスのみことばです。
イエスは、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われます。神に等しい「主」(13節)イエスがみことばを語って下さったからこそ、この 青年はよみがえったのです。
先に述べたように、主イエスが死者をよみがえらせた奇蹟は新約聖書中三回ありますが、いずれも主は死者を直接呼んでいます(八54、ヨハネの 福音書11章43節)。イエス・キリストがお命じになるときに、どんな奇蹟でも起こります。直近の例は百人隊長のしもべのいやしです(7章 7~10節)。
最も大切な永遠のいのちへとよみがえる奇蹟、すなわち私たちの救いも、主イエス・キリストが語られるみことばによって起こります。心に響き、 心を揺り動かすみことばが語られたら、私たちはそれを受け入れ、信じ、感謝するのみです。
私たちに必要な奇蹟的な出来事も、みことばが明らかに語られるとき起こります。イエス・キリストにおける神の約束を信じ、その彼方にある永遠 の希望をもって、進んで行きたいと思います。

3.イエスによる回復(15節)

いのちを与える(与えられたいのちを生きさせて下さる)のは、主イエスによる回復です。
イエスは、生き返った青年を母親に返されました(15節)。「返された」に用いられる語(ディドーミ)は、与えることです。もちろんこの文脈 上の意味は返すことでしょうが、新しく生かされた青年を、主は母親にお与えになったのです。死人がよみがえったことは、永遠のいのちを与える 象徴的奇蹟ですが、ひとり子を失ったやもめを顧みて下さった奇蹟であることも忘れてはならないでしょう(13節)。つまりこれは、生き返った 若者が新しいいのちに生きる者として母親に与えられたことです。同時に、青年にも、死んでイエスに生かされた者として生きる場が与えられたこ とでもあります。
ただ元の状態に戻ったのではなく、主イエスによって全く新しい意味を与えられたのです。神による本当の人間の回復が、ここにあります。
イエス・キリストが肉体のいのちを与える権威と力があったのは、その十字架と復活によります。神に等しいお方、あらゆる権威と力をお持ちの方 が、私たちの罪を負って、死んで復活されました。そのようなお方だからこそ、肉体のいのちも永遠のいのちも与えることができるのです。
 永遠の死に向かっている方々にも、弱っている信仰者にも、主は「起きなさい」と語っておられます。主のいのちに生かされたいと思います。



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