主が驚かれる信 仰」(百人隊長の信仰)

      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「た だ、おことばをいただかせてください。そうすれば、
 私のしもべは必ずいやされます。」

        (ルカの福音書7章7節b)    




ここに、ローマ軍の百人隊長が、死にかけていたしもべ (奴隷)のいやしをイエスに求めるという出来事が記されます。この出来事は、マタイの福音書8章5~13節とルカのみが記します。場所はガリ ラヤのカペナウム。イエスのガリラヤでの活動の中心になった場所です。
ローマ軍は占領軍ですが、この百人隊長はユダヤ人と親しくして、ともに礼拝していたようです。彼はユダヤ人を愛していたとともに、頼りになる しもべ(奴隷)を愛していました。そして、イエスにしもべのいやしを求め、主ならば必ずいやして下さると、絶対的な信頼を置くのです。
この百人隊長のイエスへの信仰の特徴は、何と言ってもそのみことばへの信仰です(7~8節)。それは、イエスのみことばの土台の上に人生を建 てる平地の説教の結論からの自然な文脈でもあります。
このような百人隊長の信仰に、イエスは驚かれます(9節)。そして、百人隊長のしもべは、イエスのみことばでいやされます。そのような恵みを 受け取らせたのは、百人隊長のイエスのみことばへの信頼でありますが、そこには、さらに詳しく見てみたい信仰の特徴があります。
この出来事は、信仰によって、主イエスのみわざを受けることができることを教えています。主イエスを驚かせたほどの百人隊長の信仰は、どのよ うなものだったのでしょうか。
 それは、
  ①真実な求道、
  ②へりくだり、
  ③みことばの権威への信頼などとまとめることができ るでしょう。
 
1.真実な求道(3~5節)

百人隊長の信仰の特徴は、まずその真実な求道心です。
この人は、ユダヤ人が信じる天地を造られた唯一のまことの神への信仰を求めていましたが、イエスのことを聞くと、すぐにイエスのもとにユダヤ 人の長老たちを送って、熱心にしもべのいやしを求めます(3~4a節)。長老たちの願いの熱心さは、百人隊長の願いの反映でもあるでしょう。
この人は、ユダヤ人を愛し、会堂を建てました(5節)。それは、まことの神とその民への愛です。新約聖書時代、聖書の高い倫理性と、その大元 である神への信仰に捕らえられた、無視できない数の異邦人(非ユダヤ人)求道者(敬神者)や改宗者がいました。この百人隊長もその一人でし た。
彼は、しもべをも愛していました(7b節)。彼が「しもべ」と言うのは、「私の子」と直訳されることばです(パイス・ムー)。ルカが客観的に 語る2、3節では「奴隷」という意味のことばです(ドゥーロス)。旧約聖書から、奴隷をも人間として扱うことを学んだからではないでしょう か。
会堂を建てたことは、異邦人でありながら真の神を敬い、求め、仕えようとしたことの現れです。大金を投じたことではなく、その求道心がすばら しいのです。

2.へりくだり(6~7a節)

百人隊長の信仰のもう一つの特徴は、主イエスに対するへりくだりです。
彼は、自分がイエスにふさわしくないと考えていました。彼は自分が異邦人であることをわきまえ、家にイエスを入れる資格がないと考えていまし た(6節)。それで、イエスが家に近づいた頃、友人たちを使いに出して、直接訪ねていただくのを辞退するほどでした。
ユダヤ人の長老たちを遣わしたのも、同じ理由です(7a節)。直接会うことすら失礼だと思っていました。決して、占領軍の将校として長老たち に命令して行かせたのではなく、長老たちは彼のへりくだった姿勢、まことの神を求める心、しもべを深く愛する心に感じ入り、頼まれなくても 行ってあげたい思いで、喜んで使いを引き受けたものと思われます。そのようないきさつから推測すると、家の近くで使いに出された「友人たち」 も(6節)、ユダヤ人の友人だったのかもしれません。
「へりくだる」とは、卑下することではありません。正しく自分をわきまえることです。人間は皆罪人であり、神の御子イエスにふさわしい人は誰 もいません。救い主の前に悔いくずおれる人こそ、私たちのためにいのちを投げ出して愛して下さった救い主にふさわしいのです。

3.みことばの権威への信頼(7b~8節)

この百人隊長の信仰の最大の特徴は、最初に述べたように、何と言っても主イエスのみことばの権威への全幅の信頼です。
「おことばをいただかせてください」(7b節)とは、直訳すると「みことばを言って下さい」です。聖書を読むこと、あるいは心に蓄えたみこと ばを通して、主イエスが聖霊によって語られるみことばにこそ力があります。
彼のみことばへの信頼の根拠は、「自分もローマ軍の権威に従っているが、自分の部下も自分の権威に従って、命令の通りに動く。まして、救い主 イエスのみことばなら、すべての被造物が従う」という信頼です(8節)。
みことばへの信頼は、主ご自身への信頼です。ことばは、それを語る人格と切り離せません。神ご自身からみことばが切り離されて、人格的交わり や信頼関係なしにことばだけを守ろうとして、律法主義が生じました。
先にも述べたように、主のみことばに信頼しきった信仰に、主イエスは驚かれ、「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがあり ません」とまで言われました(9節)。
マタイの並行記事では、イエスを信じないイスラエルへの警告が続きます(マタイ八11~12)。ただイエスが感心されたことだけを記すルカ は、マタイとは対照的に、イエスを信じる人は皆信仰によって神の民だ、という全世界へのメッセージを込めているようです(ルカの福音書10章 30~36節、17章11~19節、使徒の働き10章、使徒の働き13章からの世界宣教等参照)。
みことばへの信頼は神、救い主への信頼です。みことばを信じる者は誰でも救われて神の民となり、神の恵み、祝福、助け、導きを受けます。神と の交わりは、みことばを信じ、受け取るところから始まるのです。




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