「聖霊に満たされる」<聖霊の時代へ>


      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 



「ま た、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの
 上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊
 が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだし
 た。」」
      

           (使徒の働き 2章1、2節)



1.聖霊降臨

復活したイエスは弟子たちに四十日間、ご自分が生きておられることを示して、オリーブ山で、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の 約束(聖霊のバプテスマ)を待ちなさい。」〈4〉と命じられてから、「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれ、見えなくなった。」 〈9〉この時から120名の弟子たちが、エルサレムの二階座敷で十日間、罪を悔い改めて、すべてを明け渡して、聖霊の満たしを祈った。その結 果、冒頭のみことばのように聖霊が到来し、弟子たちは「御霊が話させてくださるとおりに」福音を大胆に語り出した。

2.聖霊なる御方(神)

聖霊は「激しい風・・・響き」〈使徒の働き2章2節〉とか「炎のような分かれた舌」(のようなもの)が彼らに現われた。・・・、ひとりびとり の上に止まった。」〈詳訳〉と記されている様に、「ただの力」や「思想」、「影響力」ではない。聖霊なる神(パーソナリティー)で、父なる 神、子なるキリスト、そして三位一体の第三位格なる「聖霊」 (御霊、キリストの霊、きよい霊で、いのちの御霊、恵みの御霊、慰め主などとも呼ばれる。特に「慰め主」(原語でパラクレートス(「そばに呼ばれた者」 〈助け主〉で、永遠なるお方である(*参ヨハネの手紙第二2章1節/ローマ人への手紙8章26~27、34節)。
しばしば、聖霊は目に見えないが、「風に」に譬え(*参ヨハネの福音書3章6~8節節)たり、「火、炎」に象徴されて、表現される。火は汚れ や罪を焼き尽くし、聖化し、燃える火は推進力となって真理を実行させる。しかも、求める者に注がれた神の霊(ルカの福音書24章49節)であ る。そして、神の知、情、意を持つ御方で、わかりやすく言えば、聖霊に満たされるとは、神の愛に満たされることである(ローマ人への手紙5章 5節/Ⅰヨハネの手紙第一4章12、13節四)。

3.水のバプテスマから聖霊のバプテスマへ

「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 (使徒の働き1章5節)とイエスは弟子たちに約束し、弟子たちに聖霊の満たしを求め、待望するように告げた。
多くのクリスチャンは水のバプテスマ(洗礼)で止まってしまい聖霊のバプテスマを受けるところまで、信仰が進んでいない。弟子たちも、水のバ プテスマだけでは、真のキリストの証人となって世界の極まで、福音の担い手となることはできなかった。
イエスご自身も、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて後、「天が開け、神の御霊が鳩のように下って、・・・」聖霊が注がれて、救い主としての 公生涯へ入れられた(マタイの福音書3章16、17節)。これらは、私たち各人が、歴史的な聖霊降臨(唯一回)を、今日、各人が信仰によっ て、自分の心を主に明け渡し、体験的に聖霊に満たしていただく時、各人が聖化され、霊的力に溢らせていただき、キリストが内住し、イエスの福 音を大胆にあかしする者に変容するのである。
事実、激しい迫害の中にあって、初代の弟子たちはローマ帝国を、福音で満たして行った(参考使徒の働き1章8節)。
四、地濃誠治牧師のあかし(かつて、私たちの教会のファミリー聖会にて、よいメッセージをして下さった先生は、去年、42年の伝道牧会に一区 切りして、「無菌室のボーカル」と言う著書(131項) を発刊された。
地濃家は東京都下で銀細工職人を業とするクリスチャンの家庭で、自宅で家庭集会をする熱心なご両親であった。誠治少年は高校二年の時(17 才)、自分の罪深さがわかって、涙の悔い改めをして、キリストの十字架により(Ⅱコリント人への手紙第二5章17節)、救いを受け止めて、受 洗した。その結果、銀細工職人の仕事に生きがいが与えられたとのこと。
しかし、しばらくすると、偽善なクリスチャン生活に悩んだとのこと。彼は「情欲に満ちた思い、言動、悪癖、良心の呵責。神の審判、死に対する 恐怖はつのるばかり、・・・こんな生活が三年続いた。」と記す。
1960年8月教会で15日間連夜の祈祷会がもたれ、15日間の「青年の集い」に出席した結果、「全き潔め」を求め、ひたすら祈った。九月の 聖日、早朝五時に牧師の村上先生を煩らわせ、神の前に座し、過去の恥ずべき数々の罪を、思い出すまま悔いの涙をもって告白した。特に「小学五 年の時、友達にさそわれるままにした姦淫罪の罪は、恥ずかしくて人に言えない罪だった。痴漢と何も変わらない罪を一つ一つ悔い改め、はき出し た。「その子イエスの血、すべての罪よりわれらを潔む」(文語Ⅰヨハネの手紙第一1章7節/○参ガラテヤ人への手紙2章20節)のみことばを 信じ、私は古い人に死に、キリストと共に完全に救われたと信仰によって確信した。そして心に非常な平安がきた。
家に帰ると、親兄弟の前に、ありのままを言って詫び、遠い所は手紙で、近所の菓子屋へはお金を持って謝罪した。
最後に、幼女に悪戯した罪の問題は警察ざたになるか、なぐり倒されるか、覚悟を持って、祈りつつ幼女の父親に会った。その結果、その父親は 「クリスチャンてそんな小さなことでも、人にお詫びしなければならないのですか?そんなことは小さい時は誰でもやるのに」と、許してくれた。 死ぬほど苦しんだ事なのに、あまりにあっけなくて、面くらった。神のはからいであったと、今は知る。本当に平安を持ち、聖歌五五二番を涙を流 しつつ歌った。
聖霊による深い経験は、後の生涯をどんな時にも勝利に導き、他者をも主のもとへつれていくすばらしい恵みである。(著書から要約)― 文責:久保 〉
 




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