「新しい神の民の礎(いしずえ)」


      KFG志木キリスト教会  牧師  松木 充 牧師
 



「こ のころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りなが
 ら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄
 せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけ
 られた。」

        (ルカの福音書 6章六12~13節)
        





十二使徒の選びの箇所です。マタイ、マルコ、ルカの三福音書と使徒の働きに、十二弟子のリストがあります。それらは、しばしば研究対象とされ ますが、この選びにも私たちへのメッセージがあります。
 「ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ…」という日曜学校の賛美があり、最後に「ぼくたちもイエス様のお手伝いをいたしましょう」と歌われま す。確かに、現代の私たちにも通じる選びのメッセージがあるのです。
 ルカの特徴は、「使徒」(アポストロス)という呼び名を主イエス自らお付けになったことを記すことです。「使徒」は、初めはキリスト教宣教 者というほどの意味で広く用いられましたが、ルカは福音書と使徒の働きを通じて、「使徒」を十二弟子とパウロ、バルナバに限定して用い、その 命名を主イエスによるものと明らかにします。「使徒的教会」の行くべき道を、福音書と使徒の働きを通して示すためではないかと思われます。
 「使徒」はイエス・キリストにじかに任命された弟子たちで、救済史的、教会史的に規準となる特殊な存在です。新約聖書の文書は、「使徒的」 であること(イエス・キリストとの直接性)が規準です。
 しかしながら、使徒の選びの中で、後の時代の教会、私たちにも適用できることもあります。そこから教えを受け、使徒的教会を受け継ぎ、新た な神の民を加え、伝え広げる者でありたいと思います。
 使徒たちの選びには、主イエスのご目的、祈って熟慮されたご計画がありました(12節)。「十二人」とは、新しいイスラエルの土台です。そ の選びの中から、私たちの選びの目的に通じるものを拾い上げ、私たちも、ゆだねられた地域の神の民=教会の礎となっていきたいと思います。
 私たちも使徒たちのように、神の民の礎となれます。それは、選びの目的を知り、役割を果たすことによってです。私たちに共通する使徒たちの 選びの目的は、どのようなものでしょうか。

1.教会構築の土台として選ばれた(13節)

 十二人という人数は、明らかにイスラエル十二部族を意識されたものです。新約の神の民、新しいイスラエルを造り上げるために、その土台とし て十二人が選ばれました。
 もちろん、どこにも「十二人」の意味は書いていません。しかし、黙示録二一12~14には、新しいエルサレムには、門に十二部族の名が、土 台石に十二使徒の名が記されています。使徒の選びが、新約の神の民の土台となるためであることは明らかです。
 「使徒」(アポストロス)は、遣わされた者、派遣された者という意味です。イエス・キリストの使者として、福音のメッセージを携えて遣わさ れ、宣べ伝え、教えました。確かに、使徒は、イエス・キリストに直接選ばれ、教えの基準である人々で、私たちとは違います。しかし、私たち も、聖書によって使徒たちの福音は知っています。そのメッセージを携えて遣わされ、伝える役目は同じです(ヨハネの福音書15章16節)。
 礼拝ごとに、私たちは主の救いを確認し、主に与えられた務めを確認し、そして主に自分をささげ、遣わされて行きます。家庭に、地域に、職場 に、学校に、友人たちに、親族に…。

2.さまざまな人の救いのために選ばれた(14~16節)

 十二人の使徒たちは、種々雑多な人たちでした。漁師(ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)、その他のガリラヤの庶民、取税人(マタイ=アル パヨの子レビ)、その兄弟と思われるアルパヨの子ヤコブ、疑い深い人トマス、熱心党員(革命家)シモン――。イスカリオテのユダも、熱心党の シモン同様、シカリ(短剣)を持つ革命家という説もあります。
 私たちも、いろいろな背景を持って一つの教会に集っています。学歴も職歴もさまざま、年齢層もさまざま、夫であったり、妻であったり、独身 であったり…。そして、十二使徒のように私たちの多くが庶民です。
 日本のキリスト者たちを見渡しても、いろんな人がいます。日本のトップレベルで活躍する人が青少年と談笑――。主は、そのような教会をお建 てになり、あらゆる人を救おうとしておられます。私たちも、そのように用いられるために選ばれたのです。

3.十字架の恵みを伝えるために選ばれた(16節)

 十二使徒の中には、後に主イエスを裏切ったイスカリオテのユダも入っていました。
 イスカリオテのユダの選びは、失敗ではなく、先を見通された主のご計画と見なければなりません。各福音書が言う「イエスを裏切った」という 注釈は、後のことを説明するためでもありますが、主がそれを見通しておられたことも示唆しているのではないでしょうか。主はユダの裏切りを事 前に予告されましたが、直前にわかったことではありますまい。それは、主が十字架にかかり、復活される救いのみわざの御計画が初めから明確 だったことからもわかります。つまり、ユダも必要なピースだったのです。
 裏切り者はユダだけではありません。弟子たちは皆十字架を前にして逃げ去りました。ただ一つの違いは、ユダは自殺し、弟子たちは悔い改めた ことです。ユダも悔い改めれば赦されたはずです。悲劇的な最期を見通しておられたからこそ、主は深く悲しみ、ユダをあわれまれたのです。十一 使徒たちは、赦された罪人として復活の主に回復され、聖霊に満たされ、命がけで伝道します。彼らでなければ伝えられない赦しの恵みがあったの です。
 私たちは皆罪人です。神の前には皆同じです。あるいは、信じた後もつまずいたり、弱ったり、信仰を捨てたくなったり…。主は、あえてそんな 私たちを選ばれたのです。主の選びには、必ず目的があります。私たちにしか証しできない主の恵みを証しし、主のご目的を果たしたいと思いま す。

 



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