「湧き水の泉」(まことの神に帰れ) 

KFG志木キリスト教会  主任牧師 久保 真理 師
 



「わ たしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわた
 しを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできな
 い、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったの
 だ。」(13)

         (エレミヤ書2章13節)
      
        




1.水ためを掘る人々

以前に、ある広告会社の有名なキャッチコピー作家が次々とヒットするキャッチフレーズを世に発表して、活躍していたが、ある日、その人は、 「ニセものはバレるものです・・・」とメモ残して、自殺して、話題になったことがあった。深い事情はわからないが、多分、その人は心を捕える 「ことば」を考えるのに疲れ、湧き出てくる泉がつきたのであろう。
この冒頭の聖句のことばによれば、「こわれた水ためを自分たちのために掘った」のではないかと思う。人はまことの神(湧き水の泉)を離れて、 充実した生き方はできない。
この聖句の背景となるBC 626年頃のユダの人々は、神に愛され、祝福された生活をしていたのに、その心が神から離れ、ついには神ならぬ偶像神を崇拝する生活に落ち、預言者によって、エルサレムの 滅亡の警告が語られていたのである。
かつて、マザーテレサが日本に来訪した時、「日本人は拝金主義の生活に落ち入り、毎日、お金のために忙しく働いている。・・・」と、感想を述 べていた時があった。
私も、高校時代は油絵を描くことに明け暮れて、芸術家気取りでいたが、ある時、ふーっと空しさを感じることがあった。その頃、わが家では家庭 礼拝をもっているのに、その座をはずれて、絵を描くことに夢中だった。
私にとって絵画は偶像(神)になり、聖書の神に背を向けていた。そこに創造的な力が湧くはずがない。やがて行き詰まったのである。
「わたしの民は二つの悪を行なった。」と言われるのは①は「湧き水の泉」(まことの神)を捨て、背信した。②「こわれた水ため」(神ならぬも のを神に)を自分たちのために掘った。これは、聖愛なる神に背を向けた結果、反逆と不道徳と不従順の生活に堕落していった。このことを正直に 認め、悔い改めれば、聖書の詩人の様に「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(詩篇36篇9節) と、泉と光を私たちのいのちとすることが出来る。

2.水の枯れない泉(救い主キリスト)

「湧き水の泉であるわたし」はメシヤなるキリストを預言したみことばである。
カウマン夫人の著書「荒野の泉」(365日のディボーション書)を思い出す。1901年(明治30年)、ムーデー聖書学院で学んでいた中田重 治師との出会いによって、す
でに海外宣教に献身していたカウマン師夫妻は、キルボルン師と共に、米国から日本へ渡来し、東京、神田に東洋宣教会を設立(二階建ての借家を 拠点に)して、三六五日、昼は伝道者志願者に聖書を教え、夜は伝道会を続ける福音宣教の働きを続けていた。特に夫人は月刊の機関紙の発行と文 筆の仕事を担当していた。七年後、カウマン師が健康を害し(重い心臓病)、米国に居を移して療養生活となったが、実際には人との面会や募金や 日本と東洋宣教会の報告やPR等と、手紙だけでも六万通を発送していて、一日に数回は発作や痛みに襲われ、夜も熟睡できず、椅子に座ったまま 過ごした。その様な中、カウマン夫人は荒野で看病しているような戦いの合間に聖書に泉を掘りあて、渇いた魂を潤し、ご夫妻で恵まれ、励まさ れ、支えられた。夫人自身も、やはり心臓病をかかえていたが、主のいやしの聖句に信頼していた。一九二四年、「荒野の泉」は米国でベストセ ラーとなったが、カウマン師(夫)は召天した。そして、「荒野の泉」の印税で、Ⅱ次大戦後の荒廃した日本の伝道(小冊子や聖書分冊の配布や天 幕集会)に用いられ、多くの人々がキリストに出会い救われた。
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへ の水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4章14節)
                                                                                           
3.不信仰の子らよ帰れ!(エレミヤ書3章2節)

「背信の子らよ帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」
( Return faith―less people, I will cure you of backsliding・・・)NIV.
エレミヤ書は52章あるが「神に帰れ!」を示す語句が約50回を数える。エレミヤ書はくりかえし、泣きながら滅亡に向う人々に悔い改めて、神 のもとに帰ることを叫んでいる。
イエスは人々に福音を語られた時、わかりやすいたとえ話「放蕩息子」を語られた。
ある人に息子が二人いて、弟息子が父親から財産を分けてもらい、しばらくすると、「遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財 産を使ってしまった。」(ルカの福音書15章13節7一五13)とあるが、とあるが、私たちは父なる神から遠く離れてしまって、分け与えられ た財産も、使いはたし、そこへ「大ききん」が起こり、食べるのにも困り始めた。(ルカの福音書11~24節参照)。
その結果、彼は豚の世話をする者に脱落し、行き詰まっていた。そこで、豚の餌を食べて見るが、人は何でも食べていれば空腹を満たせる者ではな い。―やがて、「我に返ったとき、父のところにはパン」も「雇い人も大ぜいいるではないか?」と、目ざめ、「私は天に対して罪を犯し、またあ なたの前に罪を犯しました。」と悔い改め、父なる神に立ち帰った。ところが「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づ けした。」愛なる神は人々が帰るのを待っている。





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