「人間をとる漁師に」(主の救いを伝える) 

KFG志木キリスト教会  牧師 松木 充 師
 



「イ エスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよ
 い。これから後、あなたは人間をとるようになるので
 す。』」

      (ルカによる福音書5章10節)
      
        




ビリー・グラハム師が2月21日(日本時間)に天に召さ れました。二億人以上に福音を伝えた大伝道者から、バトンは引き継がれました。世界中のキリスト者に、私たちに――。
 本個所は、マタイの福音書4章18節~22節、マルコの福音書1章16~20節に並行記事があります。題の「人間をとる漁師」はマタイ、マ ルコからです。
 ルカ独自の記述は、主イエスがシモン(ペテロ)の舟から人々に教えられたこと、その後、奇蹟の大漁を与えられたことです。そして、主の奇蹟 の力に恐れおののく漁師たちを、主は宣教へと召されたのでした。
 伝道への召しは、使徒、牧師、伝道者だけに与えられているのではありません。名もないキリスト者たちの命がけの伝道、証しがあって、ローマ 時代のキリスト教の躍進がありました。アンテオケ教会も、バルナバ、パウロが来る以前に、迫害で散らされた名もない人々によって形成されまし た。全キリスト者に、福音を伝える召しは与えられているのです。
 主イエスがペテロたちを「人間をとる」漁師にされた出来事から、私たちが、どのようにして福音を伝える者となれるかを見てみたいと思いま す。
それは、
 ①キリストのみことばの力によって、
 ②キリストの罪の赦しによって、
 ③キリストの召しと応答によってです。

1.キリストのみことばの力(4~7節)

 私たちも、キリストの福音を宣べ伝えることができます。それは、まずキリストのみことばの力によってです。
 主イエスは、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の湖畔で、シモン(ペテロ)の舟から湖岸に集まった人々に語られました(1~3節)。それから主イエ スは、夜の漁を終えてすでに網を洗ったシモンに、再び漁をするように言います(4節)。シモンは、夜通し働いても何一つとれなかったと言いつ つも、「おことばどおり、網をおろしてみましょう」とやってみます(5節)。そして、網が破れそうなほどの大漁となり、仲間たちの舟に助けを 求めましたが、二艘とも沈みそうになるほどでした(6~7節)。
 「おことばどおり」の直訳は、「おことばの上に」です。「おことばのゆえに」、「おことばに立って」、「おことばに基づいて」、というほど の意味でしょう。主イエスのみことば通りにすれば、必ずそうなるのです。
 なぜシモンは、漁師の自分が夜通し働いて何もとれなかったのに、元大工の主イエスのことばに従う気になったのでしょうか。それは、人々に語 られた主のみことば(3節)が、彼の心も動かすものだったからでしょう。そして、「おことばの上に」網を下ろしたら、奇蹟が起こりました。
 みことばは実現します。みことばで変えられた人生はいくらでもあります。シモンの人生は変わりました。弟子たちの人生も変わりました。多く の人々の人生も変わりました。ローマ帝国がひっくり返るほどに――。

2.キリストの罪の赦し(8~10節)

 私たちも、キリストの福音を宣べ伝えることができます。それは、キリストの罪の赦しによって可能です。
 シモン・ペテロは、主イエスの力を目の当たりにして、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言います (8~9節)。その人の心を動かす恵み深いみことばとともに、大漁の奇蹟を通して、主イエスが神からの人だと信じざるを得なかったからでしょ う。
 神の前に立たされるとき、私たちは皆震えおののくしかない罪深い存在です。どんな大偉業を成し遂げた人も、神の前に立つと無に等しいので す。
 ところが、主イエスは「こわがらなくてもよい」(10節)と言われます。主は、罪深い人間を恐れさせ、罰するために来られたのではありませ ん。赦し、きよめ、ご自身の恵みを伝える人にするために来られたのです。
 もちろん、罪の赦し、贖いは、後の十字架・復活で成し遂げられます。しかし、そのために来られた主イエスは、十字架で罪の代価を支払う前で も、罪を赦す権威をお持ちでした。クレジットカードの後払いのように――。旧約の聖徒たちも、これで救われました。今の私たちは、先払いされ ています。
 私たちの罪の代価は、支払い済みです。これから犯す罪も含めて――。ペテロも同様でした。あの十字架前の裏切りさえも、主は見越しておられ ました。だから、私たちも赦された者として福音を伝えることができます。
 使徒一〇章にコルネリオの救いが記されます。、彼に現れた御使いは福音を語らず、ペテロを呼ぶように命じ、ペテロの宣教で彼は救われます。 赦され、救われた罪人だけが福音を伝えることができるのです。

3.キリストの召しと応答(10~11節)

 私たちも、キリストの福音を宣べ伝えることができます。それは、キリストの召しへの応答があるときに可能です。
 興味深いことに、主イエスはシモンに、「これからの後、あなたは人間をとるようになる」と言われましたが、一緒にいたゼベダイの子ヤコブと ヨハネの兄弟も、何もかも捨てて主に従います。多分、シモンは彼らのリーダー格だったのでしょう。後に彼は、十二弟子全体の代表となります。 しかし、それだけではなかったでしょう。彼ら自身も主イエスに捕らえられたのでしょうし、召しは彼らにも与えられていたことも示唆します。
 イエス・キリストの福音を宣べ伝える召命は、すべてのキリスト者に与えられています(使徒の働き1章8節)。それに応える者こそが、「人間 をとる」ことができるのです。それは、大漁の出来事からも証明済みです。主が「人間をとるようになる」と言われたら、必ずそうなるのです。
 ペテロたちは、漁師の仕事に戻ります。そこに現れた復活の主は、再び奇蹟の大漁を与えて召命の原点に立ち返らせ、改めてペテロに教会の牧者 の使命を与えます(ヨハネ二一章)。「人間をとるようになる」という主の召しは、応答する者を導き通して下さるのです。




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