【新年聖会】


「完全は弱さのうちにこそ


特別講師 村上  宣道 師
 



「し かし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる
 からである。』と言われたのです。ですから、私は、キ
 リストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私
 の弱さを誇りましょう。」
 
   (コリント人への手紙第二12章9 節)     
        




 星野富弘さんの詩、「…強い者が集まったよりも、弱い 者が集まった方が真実に近いような気がする…」。に共感を覚えます。Ⅰコリント一章では、強い者を辱めるために、神は弱い者を選ばれたと言わ れます。教会は弱い者の集まりと言えるでしょう。そこに真実が見られるのではないでしょうか。 パウロは「十字架以外に誇るものはない」(ガラテヤ六14)と言いますが、このコリント人への手紙第二12章5節では、「私自身については、自分の弱さ以外には誇りませ ん」と言います。パウロは強い人という印象があります。強靭な信仰、強靭な意志を持った人だと思いますが、その秘訣は、誰よりも弱いことを 知っているからだと言うことができるでしょう。 ここで、「一つのとげ」があると言います(7節)。治らない病のようで、人から見ると見苦しいものだったようです(ガラテヤ人への手紙13~14参照)。このとげさえなけ れば…と、パウロは何度も祈りました(8節)。しかし、主の答は「わたしの恵みは、あなたに十分である」というものでした。彼は、ずっと弱さ から解放されることはなかったわけです。しかし、その弱さこそが彼の強みだったのです。 内村鑑三の説教に「聴かれざる祈祷」というものがあります。モーセも、約束の国に入れませんでした。エレミヤにも言及されます。イエス様も、三度「この杯を取りのけてくだ さい」と祈られましたが、主ご自身でさえ祈りが聞かれなかったのです。そしてパウロも――。しかし、祈祷が聴かれないことこそ、真に聴かれた ことであると、内村鑑三は言います。娘のルツ子さんの病のために、内村は何度も祈りましたが、彼女は天に召されました。しかし、聴かれない祈 りこそ、聴かれた祈りなのだと言うのです。 パウロも、祈りは聴かれませんでしたが、その弱さこそが主の力が現れる機会だという答をいただきました。モーセは、ヘルモン山でイエス様とともに現れます。主イエスの祈り も、直接は聴かれませんでしたが、神のみこころがなされ、みわざがなされたのです。 ニューヨーク市立病院に、落書きがあります。「大きなことが成し遂げられるようにと神に力を求めたら、謙遜を学ぶようにと弱さを与えられた。より偉大なことができるように と健康を求めたが、より良きことができるようにと病弱を与えられた…求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聴き届けられ た。…神は、あらゆる人の中で、私を最も祝福されていたのだ。」パウロにとっても、弱さは恵みであったのです。 久保師の闘病についても、生きていることさえ辛いような日々を過ごされたとお伺いしました。私は頑健というほどではないのですが、大きな病気なく過ごしてきました。しか し、八十歳になって胆のうの全摘手術を受けました。その時、河野進さんの詩を思い出しました。「もし病まなければ、祈り得ない祈りがあった… もし病まなければ、人間でさえあり得なかった。」やっと人並みの人間になれたと、病床で実感しました。神様のみこころのうちで起こることに、 無駄なことはないと言いきれるのは幸いです。 パウロは、誇るものは弱さだけ、神の力が宿るために、積極的に、大いに喜んで弱さを誇ると言うのです。これは、私の伝道者生涯を支えたことばです。「地のちりに等しかり、 何ひとつ取り柄なし」(聖歌五二二)。昔から、何をしてもうまく行かず、謙遜してみたいと思っていました。人前で話すのも苦手で、劣等感の塊 りでした。そんな者が、主はロバの子を選ばれた、「主の用なり」というみことばを聞いて聖書学院に入りました。私が誇るのは弱さ、何ひとつ取 り柄がないのが私の取り柄と思ってきました。ラジオやテレビでお話しするのも、考えられないことでした。ダビデも、物の数に入ってない者でし た。何ひとつ取り柄なし、という者を神はお選びになったのです。 十三4「確かに、(キリストは)弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の 力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」 イエス様は、この上なく弱い赤ん坊となって、地上に来られました。そして、天の軍団を呼び下すことなく、弱さに徹して十字架につけられたのです。私たちが強く生きることが できるために、弱さに徹しられたのです。神の弱さは人よりも強いのです(コリント人への手紙第一1章25節)。 パウロは、善であると知っていながら、それを行なう力がないことを語ります(ローマ人への手紙7章18、1節)。「ああ、われ悩める人なるかな」(24節文語訳)、何とい う弱い者なのか!と言うのです。みこころであるとわかっていても行なえない、みこころでないとわかっていても行なってしまう――これが、人間 の本質的弱さです。しかし、そこにキリストの勝利、福音の勝利があると、七章から八章にかけて凱歌を上げるのです。 ある人は、本当の強さとは、自分の弱さを知ること、それと向き合うことだと言います。自分の弱さをごまかさず、自分の弱さを見つめるときに、本当に砕かれた器として主の前 に出させていただくことができるのです。十字架の力、聖霊の力によらなければ、何もすることができない弱い者だという深い自覚があるときに、 私たちは初めて主の前に出ることができるのです。ナアマン将軍も、汚い部分を軍服で隠していましたが、軍服を脱いで、何もかもさらけ出して、 預言者の言う川に身を沈めたときに言わされました。キリストの血潮に身を沈めるなら、私たちの身にも、本当のきよめが起こるのです。主は、私 たちの弱さを、罪深さを、よく知っておられます。その上で、強くしてあげよう、きよくしてあげよう、全き者としてあげよう、御霊に満たしてあ げようと招いていて下さるのです。大胆に、恵みの御座に近づいて行きたいと思います(へブル人への手紙4章15~16節)。 (文責 松木)


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