「人知を超えた愛
(満ち満ちたさまにまで)

      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 



「ど うか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力
 をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいます
 ように。」   
        
         (エペソ人への手紙3章16節)
      




1.あなたはどんな人になりたいか?

開拓期の幼児教育のためにMさんと言う長い間、学校の教師をして来られたクリスチャンのご婦人(2人の子の母)に講師として来ていただき、お 母さん方に子育てについて講演していただいたその時、開口一番、「あなた方はどんな女として生きていきたいと思っていますか?」と質問され て、一瞬、しーんと静まりかえり、沈黙の時が流れた。その時、Mさんは「私は愛の人をめざして日々歩んでいます。ご自分の生き方が定まってい なければ、子どもの教育どころではないでしょう。」と、その答えも語った。

2.罪過の中に死んでいた者(二1、5)

新しい年のために冒頭の御言葉を示されている。私個人としては「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」 (コリント人への手紙第二4章16節)の聖句に励まされている。
 この「人知を超えた愛」(満ち満ちたさまにまで)してくださる聖句の背景を忘れてはならない。神の計画は神の家の建設のためにどこかのガラ クタの中に、ころがっている石を見出し、選び、組み入れて、すばらしい傑作としようとしている。
 事実、このエペソ書で、「あなた方は自分の罪過と罪との中に死んでいた者」(二1、5)で、永遠に滅びる者であった。その様な者を選び、救 い、「天の所にすわらせて」くださったのである。(パウロも「すべての聖徒たちの内で一番小さな私」【三8】とと言っているが ― 私たちは「無に等しいもの」【Ⅰコリント人への手紙1章28節】と言えよう。)。
罪人で、十字架から遠かった異邦人である私たちも、唯、「恵のゆえに信仰によって救われた」(二8)者で、「御子の血による贖い、・・・神の 豊かな恵み」を経験しているはずである。事実、人の知恵や力ではどうにもならなかった者を、十字架のもとに伏した時から、上からの力によっ て、新しい人に変貌した(迫害者サウロは使徒パウロに変化した。)。

3.内なる人(内住のキリスト)〈三16、17〉

「外なる人」とは、肉体的なものを指している「内なる人」(霊的な人)とは、唯、十字架を仰ぎ見るだけでなく、各人の中にある「自我」(エ ゴ)を全く明け渡し、それぞれの心の王座にキリストを住まわせる経験から始まる。
そのためには、神に対して、心の戸を開き、確かに迎え入れたと言う瞬間と継続が必要である(黙示録三20)。そして日々の戦いの中で、聖霊に よって(信仰によって)、愛に根ざし、全き愛の人に生きることである。
ミケランジェロ(1475~1564)は聖書の人物を彫刻や絵画で表現し、建築家、詩人でもある。特にローマのバチカンでシスティナ礼拝堂の 天井画や「ピエタ」や「ダビデ」像を見た。彼の手にかかる時、大理石の塊は人々の心を引きつける傑作となる。伝説によれば、通りかかった建築 現場に山のように積まれた石のかけらに触れた時、「私には天使が見える・・・」と、ある石の塊にノミを入れて、みごとな天使像が出来上がった と言う。
私たちは各人は、神の栄光の豊かさに、御霊の働きにゆだね切って、歩む時、ただの塊でなく、ノミとハンマーで、すばらしい、深みのある彫刻を して下さり、個性的な、それぞれのキリスト像が造られ、すばらしい傑作となる。
これは信仰によって私たちに与えられた「奥義」(3、4、5、6)である。
そのために
 ①聖霊によって強められること。
 ②各人の心中にキリストを内住させるせること。
 ③キリストの広さ、長さ、深さ、高さを知るようになること。
 ④神ご自身の満ち満ちたさまにまで、満たされること。(○参三16~19)。

四、満ち満ちたさまにまで(三19、20)

「愛は満ち足れる日をおくらせ  罪の力よりわれを守る 
いかなる奇しき愛ぞ愛ぞ    汚れしわが身を潔くすとは」
今、教会は愛も、力も欠けている。主は御子を下さったのみか、あらゆるる必要を満たす豊かで、富んだお方である。それぞれ「満ち満ちたさまに まで」していただこう。「豊かに施すことのできる方に」求めよう。
ある人はコリント人への手紙第一13章を毎日読み、その実現のために、日々祈り、信仰によってキリストを内住させて、歩んでいるうちに愛の人 になったと言う(ローマ人への手紙5章5節参照)。
エミー・カーマイケル(英国15才前に回心し、17才で、少年少女のための集会を持もち、25才の時バクストンのもとで、宣教師として働いて いたが、病に倒れ、帰国。27才の時に、改めてインドへの宣教師として働いた。32才以後はドノヴァーを拠点に、宣教活動をなし、特にヒン ズー教のために、神殿娼婦とされる少女たちを救出し、導き、その悪習を禁止する運動にものり出し、様々な戦いを経験する。45才の頃には子ど もの数は一四〇人に達したが、第一次世界大戦時などは精神的、経済的な戦いがきびしかった。54才の頃には30棟の生活棟があり、医師や外国 人ワーカーが20人以上協力していた。さらに祈りの家や病院も建てたが、彼女は56年間、母国に帰ることをせず、晩年は病床にあっても、祈 り、働き人を指導し、インドに愛を注いで、この地で83才で召天した。




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