「神との関係の回復
(仕切りを除け)

      KFG志木キリスト教会  主任牧師  久保 真理 牧師
 



「見 よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が
 遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あ
 なたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなた
 がたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにし
 たのだ。」   
        
         (イザヤ書59章1、2節)
      




1.神中心でない生き方(罪人)

人が神との交わりを遮断する時、私たちの祈りがきいていただけないし、その生活は暗やみを手探りで歩く状態となる。預言者イザヤがユダの罪を 列挙していた時代、聖都を誇り、神の宮の礼拝やその儀式を守っていたが、指導者も、民も、偶像礼拝や肉欲の罪が蔓延していた。イザヤは人々の 手(3~6)足(7~8)思い(7)が、つまり全身がすべて罪の働きに用いられ、神に反逆し、他者に死毒を与えていると言う。使徒パウロは 「義人はいない。ひとりもいない。・・・善を行う人はいない。ひとりもいない。・・・彼らの道には破滅と悲惨がある。」と、イザヤ書も引用し ながら、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ人への手紙3章10~23節)と、人は、徹底的に罪 人であることを指摘している。
そして、ローマ七章では、結論として、「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」 (ローマ人への手紙7章15~24節参照)
「この死のからだ」とは、ローマ時代の刑罰の一つに、生きている人を死人と向き合わで、しばって、放置される時、死毒が生きている人を腐敗さ せる恐ろしいもので、あらゆる罪汚れの本源はその人の中にある意味である。
昔も今も、神との仕切りとなっているのは自己中心と言う偶像(罪の本質)である。そのために必要なのは、「彼らのわざ・・・」云々と言うのは 罪の様々を傍観している態度で、(5~8)イザヤの様に。(民の側に立ち)、自身のこととして「私たちの・・・」と自分のありのままを告白し て祈るべきであり、(9~13)とりなしたいものである。

2、悔い改めの祈り(12、13)

「私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、」(12)「私たちの罪が・・・不利な証言」などと、主への反逆の罪、不信仰の罪を告白す る。さらに「私たちは自分の罪の咎(心のうちの腐敗、悪行の源)」を認め、不従順など、真実に悔い改める時、主なる神との間の雲霧は晴れて、 主の御顔の光も照り輝く。
多くの人は自分の罪咎を認めることが出来ても、それをどのようにしてよいかわからないで、暗やみの中にさ迷う。ダビデは「『私のそむきの罪を 主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32篇5節)まさに、告白する者の心に赦しと平安を下さる。

3.とりなす者のいない世(16)

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(16)とある様に神に背を向けた世は、まさに罪人だらけで義人で、とりなすも のを見い出せない。そこで、絶望状態の世に、「ご自分の義をご自分のささえとされた」救い主を遣わされることを約束して下さっている。
使徒パウロが「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテ第一の手紙2章 5節)と明白に語ったように、仲保者キリストを備えて下さっているのである。
あの出エジプトしたイスラエルの民は、しばしば荒野で、神に反逆した時、モーセは神と人との間に立って、いのちをかけて人々のためにとりなし 手として、涙の祈りをささげた。その時、ご自分の名が「いのちの文」から消し去られてもと、民の救いのために祈った。まさに、後のキリストの 姿を見い出す。(参照:出エジプト記32章32節)。

4。贖い主がシオンに来る(20、21)

驚くべきことに、イザヤは七百年も以前に霊感を受け、暗い時代に希望の光となるキリストの到来と受難、死、復活、栄光の姿まで描き出している (7章14節/9章6節/11章1~4節/7章15節/42章1~4節/53章/25章8節/11章3~16節/32章)。特にエルサレムの 丘の十字架を思うべきである。
絶望的な罪の民の姿にもかかわらず、この罪深い者のために悔い改めをうながし仲保者で、贖い主(十字架の身代わりによって人々を救うキリス ト)を遣わす恵みを心に刻みたい。
好地由太郎と言う人は、明治時代17才の時、女主人を暴行、殺人、放火して、終身刑で獄中にあった(3年で牢名主に)。ある時、一人の青年が キリスト教の伝道を路傍でしていたので、巡査に捕えられて、誤って重罪犯ばかりの監房に入れられたために、袋叩きに会った。その時、泣き声で 「私はここで殺されても天国へまいりますが、ここにおる方々は神を信じない罪人です。どうかこの方々の罪を赦してください。」と祈ったことば を好地由太郎は耳にし、不思議な光をうけ、どうすればその様な心になれるかと聞いたところ、「聖書をお読みなされ!」と答えをきいた。(彼は 30分間の間違った投獄であったので、すぐ巡査につれ出されて行った。)
やがてさし入れられた聖書を読み、救いに与り、30年の獄中生活の間に模範因となり、恩赦によって30年後に出獄し、伝道者として日本及び東 洋の各地で、すばらしいあかし伝道をし、様々な奇跡的なみわざを見聞きして、神に用いられた。たとえ、獄中でも主のみ手はとどくことを思い知 らされる。




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