「信仰の迷いへの答」


     KFG志木キリスト教 会  牧師  松木 充 牧師
 



「目 の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアト
 に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死
 人が生き返り、貧しい人たちに福音が宣べ伝えられてい
 る。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

     (マタイの福音書11章5~6節 新改訳三版)




人生は順調な時ばかりではありません。物事が思い通りに 行かず、苦しい時、ふと心に神様への疑いや迷いが起こることはないでしょうか。
 この聖書箇所は、バプテスマのヨハネが主イエスに疑問を持ち、主がそれに答えられ、さらに語られたことの記録です。
 バプテスマのヨハネは、捕えられていました(四12)。ヨハネが捕えられたいきさつは、彼の処刑とともに記録されています(14章 1~12)。
 ヨハネは、獄中から自分の弟子たちを遣わして主イエスに問います。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも…。」(3節)つま り、「あなたは本当にメシア(キリスト、救い主)なのですか」と問うたのです。
 ヨハネは、初めからイエスが救い主であることは知っていたはずです(3章14)。なぜ今更こんな疑問が出て来るのでしょうか。
 それは明記されていません。もしかしたら、主イエスが行なっている目覚ましいみわざを聞いて(2節)、では、なぜ私は助けて下さらないの か、と思ったのかもしれません。「キリストを予告する重要な務めを果たし、正しいことを言ったために迫害され、囚われているのに、なぜ…」と ――。
 あるいは、当時のユダヤ人たちのように、異邦人の支配者を追い払い、悪者を裁いて神の王国を地上に実現する、政治的軍事的メシアを待ってい たのかもしれません。「いつ異邦人の権力者たちを追い払って神の国を打ち立てて下さるのか…」と不安になったのかもしれません。
 私たちも、「なぜ?」と悩み、自分が描いていたキリスト像が崩れる時があります。バプテスマのヨハネの迷いに対する主の答から、信仰の迷 い、疑いから抜け出す道を探りたいと思います。

1、事実起こっている救いを見る(5節)

 まず、自分の苦境ではなく、事実キリストが行われている救いのみわざに目を向けることです。
 主イエスがヨハネに伝えるようにと言われたのは、今、事実起こっている、様々なご自身によるみわざでした(4~5節)。
 5節は、イザヤ書35章5~6節、61章1節の引用です。イザヤ35章はメシア時代の預言で、それが完成するのは世の終わりですが、主イエ スの癒しはメシア時代の開始・到来を告げるものでした。イザヤ書61章1節は、遣わされるメシアが、「貧しい者」=神だけが頼みの苦しむ人々 に、福音をもたらすことの預言です。それらの預言は、事実主イエスによって実現していました。だから、「間違いなく、わたしが救い主だよ」と いうことなのです。
 私たちは、苦しむとき、疑いを持ちます。「イエス様は本当に救い主か」、「神様は本当にいるのか」等――。しかし、主が今も行なっておられ る数々のみわざを見ましょう。主は、今も変わらず私たちを顧みておられます。

2.主イエスに強く求める(12節)

 次に、主イエスに強く求めることです。もちろん求めるのは御国であり、みこころの地に成ることです。主の祈りで祈られるように――。
 主は、ヨハネの弟子たちが去った後、バプテスマのヨハネについて最大級の賛辞を贈ります(7~14節)。彼こそ、預言されていたメシアの先 駆け、神から遣わされたエリヤです(10節→マラキ書3章1節、14節→マラキ書4章5節)。主は、ヨハネは女から生まれた者の中で最も偉大 だとまで言いながら(11a節)、「天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大」と言われます(11b節)。ヨハネの疑いは彼が弱いからではあ りません。彼がキリスト以前に属する人だから、限界があったのです(13節)。主イエスがメシアの働きを始め、十字架と復活で御国に入る条件 を整えて下さる時代に、主を信じて御国に入る人々は、ヨハネよりはるかに幸い、はるかに大きな特権を持つのです。
 そのメシア時代がヨハネによって予告された時以来、天の御国は激しく攻められ、激しく攻める者たちがそれを奪い取っていると言われます (12節)。迫害にも反対にもめげず、激しく主イエスの救いを求める者たちが救われている、という意味でしょう。実際、取税人、罪人、遊女な ど、御国から最も遠いはずの人たちが、主に求めて救いを受けています。5節に描写される出来事の多くは、強く求める人たちに与えられたものな のです。
 迷い、疑いが起こるとき、強い飢え渇きをもって主に求めましょう。パウロも、主に三度も癒しを求めたからこそ、「わたしの恵みは、あなたに 十分」という確かな答をいただきました(Ⅱコリント十二9~10)。

3.自己中心なキリスト観を捨てる(15~19節)

 最後に、自己中心なキリスト観(自己流聖書解釈)を捨てることです。人間的な先入観や固定観念を捨てなければ、本当のキリスト像は見えませ ん。
 「耳のある者は聞きなさい」(15節)とは、本当に重要な、注意して聞くべきことをお語りになるときの前置きです。16節以下は、「笛吹け ど踊らず」とよく言われます。「この時代」の人々は、笛を吹いたり弔いの歌を歌ったりする子どもにたとえられています。「笛を吹いてやってい るのだから踊れ」、「弔いの歌を歌ってやっているのだから悲しめ」と言っても、踊るか踊らないか、悲しむか悲しまないかは、聞いている子ども たちが決めることです。
 同じように、「あなたがキリストなら…」、「信じてやったのだから…」と、こうしろ、ああしろ、と主に命令することはできません。人々は、 ヨハネに対しても、主イエスに対しても、自分勝手な評価や解釈をしました(18~19節)。それが、本当のキリストを見失わせるのです。
 私たちは、どのように主イエスを受け止めているでしょうか。成熟した信仰とは、「私のためのキリスト」ではなく、「キリストのための私」で す。ここが確立すると、本当のキリスト、本当の恵みが見えてきます。





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