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「イザヤの聖化経験 」(イエスの栄光を見た預言者) KFG志木キリスト教会 主任牧師 久保 真理 牧師
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1.主の祝福を失った王 イザヤ(主の救い)が期待していた「ウジヤ王が死んだ年に」(〈BC七〇〇頃〉)とあるが、ウジヤは16才で王となり、52年間エルサレムで 王として祝福された歩みであった。それを支えたのは預言者ゼカリヤであった。王はペリシテとの戦いに勝利し、その勢力は並はずれて強く、やぐ らを建て、水ためを各地に掘り、多くの家畜を飼い、山地には果樹園をつくり、戦闘部隊の勇士二、六〇〇人、その指揮下に三〇万七五〇〇人の軍 隊(種々の武器をそろえ)、その名は遠くまで、鳴りひびいた(Ⅱ歴二六章、参照)。 ところがウジヤ王の「心は高ぶり」(不信仰の罪)、祭司がやるべき香をたくことを、王自身が越権行為として、やってしまったのである。その 結果、神の怒りに触れ、「突然、らい病が王の額に現われたのです。・・・らい病にかかった王は、死ぬまでずっと、隔離された家に住 み、・・・」(Ⅱ歴代二六19、21、LB)―どんなに活躍したとしても、聖なる神の前に聖くなければ、祝福を失うのである。 2.主を見たイザヤ 一方、イザヤは預言者であり(王族の一人で、父アモツはユダの王ヨアシの次男。)、政治家として国に貢献していた。彼はウジヤ王への期待が 大きかったためか、死後、失望の中で、神殿で祈っていた(私たちは心渇く時、祈りの座にひれ伏すことは幸いである。)。 その時、神の臨在(幻)に触れ、「主を見た。」(1)、「この目で見た・・・」(5)と2度記している。まず、イザヤは神の高さに圧倒され た。しかも神に仕えるセラフィム(燃えている天使)が六つの翼をもち、二つの翼で、「顔をおおい」(目をかくし、神を見ない)、さらに「その 二つで両足をおおい」(自分勝手の道を歩まず、主の導きに従うことを象徴する。)そして、「二つで飛んで」いたのである。この天使は「聖な る、聖なる、聖なる、万軍の主。」(3)と叫んで、その聖性を示し、その声は敷居の基がゆるぎ、煙(シキナー)で満ち、神の聖さと栄光に満ち あふれて、身震いするほどであった。 「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、 へりくだった人とともに住む。へ りくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」(イザヤ書57章15節) 3.私はもうだめだ(罪深さの認識) 聖なる御方の前に立つ時、私たちは内面に汚れた肉性(自我性)のあることを知らされる。「私はくちびるの汚れた者で、」(5)と、ことばを発 する前に、すでに、その心のうちに汚れた思いのある者であることを知らされた。(「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」〈ヤ コブ書1章14節〉) しかも、「くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」と、罪深い民から自分を聖別していないことも告白している。特に神のことばに仕える者が自 我と世からセパレート(分離)していることがあるべき姿である。 使徒パウロも、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙 7章24節)と、告白していたが、「圧倒的は勝利者」(八37)(ガラテヤ人への手紙2章20節参照)に変貌している。私たちも今と言う時に 聖なる御方の前に自我性を明け渡し、十字架に釘づけした瞬間を経験し、継続して、霊的に歩むことに徹底したいものである。 イザヤは神殿の「祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭」(6)で、「口に触れて」いただき「見よ。これがあなたのくちびるに触れたの で、あなたの不義(guilt)は取り去られ、あなたの罪(sin)も贖われた。」(7)― 文語では「きよめられたり」。と明白である。 神殿の祭壇の上には薪をつみ、供え物をおき、天来の火が燃える所である(レビ記17章11節)。 私たちは新約の祭壇である十字架に、キリストが釘づけられたように、私たちも明け渡して、聖霊の火で燃えるみことばの釘を、打ち込まれて、火 に触れた経験をもつ時、「なんぢの悪はのぞかれ、なんぢの罪はきよめられたりと」(文語 ・イザヤ六7)、聖化の経験をする。聖なる主の前に立つ者は、罪を自覚すると共に、自分を聖なる側に手ばなす時、聖なる者に、主は変えて下さる。まさに、信仰と恵みによる 経験である。 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。・・・イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエ スをさして言ったのである。」(ヨハネの福音書12章37~41節)。まさに、イザヤはきよめられて、二千七百後に到来する、十字架の福音を 経験し、その奥義を告げているのである。何と言う奇しい恵みであろう。 三谷康人の「逆転人生」のあかし文を読むと、数回の降格や左遷を通りながら、集中して、祈り、みことばに明け渡し、信仰に立ち、祈りとさんび の日々を継続して、会社生活の中でも日々に献身した生活を徹底している。その結果、50代で、カネボウ薬品(株)取締役に就任し、、数年後に は社長になり、内外にすばらしいあかしを立てた。文字通り信仰による「逆転人生」だったのである。 |