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「キリストの愛に応えて」(キリスト者の愛) KFG志木キリスト教会 牧師 松木 充 牧師
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三章に入ってから、愛されて神の子どもとされたキリス ト者がどう生きるかが説かれてきた。キリストが清くあられるように、自分を清くする(3節)、義を行なう者は、キリストが正しいように正しい (7節)、義を行なわないとは、愛さないこと(10~12節)、とヨハネは論を進めてきた。 本個所、13節以下では、キリスト者が兄弟を愛するべきことを明確に主張する。もちろんそれは、それがキリスト者のあるべき姿だからであ る。キリストがいのちを捨てるほど愛して下さった。それに応えて、私たちも、兄弟のためにいのちを捨てるほどに愛するべきだと言うのである。 そのようなヨハネの教えは、教会から出て行った異端信仰の追従者たちとは違う生き方を求めるものであり、それこそが永遠のいのちを持つ者の 証拠だと教えて、教会に残った彼らに確信を持たせるためである。 私たちは、神の子どもとして、兄弟を愛するべきである。 それは、①神の子どもだけが愛せるから 、②キリストによって愛を知ったから、 ③平安と確信を持てるから、である。 1.神の子どもだけが愛せるから(13~15節) 私たちは、兄弟を愛するべきである。それは、神の子どもだけが愛することができるからである。 世は憎む。世とは、神に逆らい、神と神の子どもに敵対する人々である。だから、彼らが神の子どもを憎んでも驚いてはならないとヨハネは言う (13節)。逆に、神の子どもであるキリスト者は、兄弟を愛している。だから、死からいのちに移っていることがわかるのである(14節)。 世は、愛さず、憎み、死のうちにとどまっている(14節)。ヨハネは、兄弟を憎む者は人殺しで、永遠のいのちを持っていないとまで言う (15節)。それは、主イエスの教えに基づいている(マタイ五21~22等)。 キリスト者は、愛をもって人に接する。そして、当然相手が良い反応をしてくれると期待する。しかし、憎まれたり、批判されたりしても驚いて はいけない。彼らは世なのだ。もちろん、キリスト者の愛ある行ないを喜び、感謝し、賞賛する人たちもいる。しかし、あからさまにキリストを証 しし始めると、手のひらを反す。あるいは、キリストに興味や好意を持ち、救いに近づけられている人たちの場合もあるが…。 そのような世だからこそ、私たちが愛を示していかなければならない。もちろん、努力して愛するのではない。生まれ変わった神の子どもとし て、内側から出て来る神の愛で愛するのである。憎まれても愛して、愛のない世に愛を満たせるのは、私たちをおいて誰がいるだろうか。 学校でのいじめが社会問題になって三十年以上。世に愛はない。神に愛されて、キリストにいのちを与えられて、新しく生まれなければ――。 2.キリストによって愛を知ったから(16~18節) 私たちは、兄弟を愛するべきである。それは、私たちが、私たちのためにいのちをお捨てになったキリストによって、愛を知ったからである。 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになった(16a節)。それによって愛がわかったとヨハネは言う。十二弟子でただひと り十字架の下にいたヨハネのことばは、重みがある。本当の愛を知ること、本当に愛された経験を持つことこそが、愛する秘訣である。 ヨハネは、「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と続ける。もちろん主のためにすべてをささげるのは、当然であろ う。しかし、「兄弟のために」というのは、教会が結束しなければならず、自分たち自身確信を深め、世にも示さなければならなかった当時の状況 もあろうし、実際なおざりにされがちなことだからでもあろう。キリスト教信仰は、常に神と人との愛の関係を重視する。同じ信仰に立つ兄弟を愛 せない者が、まして世の人を愛し、神の愛を示すことができようか。 「いのちを捨てるべきです」とは、死ねばよいという意味ではあるまい。キリストが、現実にご自分の肉体をささげて痛みを負われたように、具 体的な行動で、犠牲を払って愛することであろう(17、18節)。困っている人の身になり、相手が本当に必要なものを可能な限り与えるのであ る。 旧約聖書のヨブ記に出てくるヨブの友人たち。彼らは、ヨブを慰めに来たが、結局信仰の正論でヨブを裁き、傷つけた。後に神が怒りを燃やされ たのは、むしろ友人たちの方であった。喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く愛を持ちたい。具体性を持った愛、自分に何ができるだろうか、 という愛を持ちたい。それができる者は、私たちをおいて世にはいない。 3.平安と確信を持てるから(19~24節) 私たちは、兄弟を愛するべきである。それは、キリストの愛を知って兄弟を愛する者こそが、平安と確信を持つことができるからである。 行ないと真実をもって愛することを勧めたヨハネは(18節)、それによって自分が真理に属するものであることを知り、神の御前に心安らかに されると言う(19節)。それが、死からいのちに移った証拠だからである(14節)。 「たとい自分の心が責めても…」(20節)とヨハネは言う。神は私たちの心よりも大きく、何もかもご存じだからと――。そのような、自分の 感情よりも神に信頼する平安は、祈りにおける確信となる(21~22節)。求めるものが何でもいただけるとまで言うのは、愛に生きる者は (22b~23節)、自分勝手な願いごとをしないからであろう。それが、聖霊による強い確信へとつながる(24節)。キリストの愛に生きる者 こそが、そこに至る。 医師の友人が、若い頃上司から訓示を受けた。「この世にザ・プロフェッショナルと言われる三種類の人たちがいる。法律家、宗教家、そして医 師。すべて人のいのちを扱う」と――。キリスト者は皆、人を永遠のいのちへと導く祭司である。この世に愛を示すプロフェッショナルでありた い。 |