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「私の光、私の救い」 [一つの願い} KFG志木キリスト教会 主任牧師 久保 真理 牧師
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●「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めてい る。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。・・・」(4) 多くの場合、詩人は祈りから文章を描いているが、ここでは神に対してよりも、人々に向かって、神への信頼を、「告白」している(「人は心に 信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」〈ローマ人への手紙10章10節)。 詩篇23篇同様にシンプルなのに深く、人々をひきつける詩である。 いつの時代も、暗闇との戦いがある。ダビデは少年時代から、信仰深く、「主は、私の光、私の救い。」と、確信し、告白している。 私たちも、「主は、私の光、私の救い。」と告白できることは幸いである。もちろん、キリストは「光はやみの中に輝いている」(ヨハネの福音 書1章5節)とある様に、暗やみの創造の始めから、主は「光あれ!」と語った時、光が生れた。まさに、主は光の源であり、この御方に従う者は 「世の光」(マタイ五14)となる。 (「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」〈ヨハネ八12〉)。 1.だれを恐れよう (1~3) この世にあって、光の道を歩む時、必ず、やみの勢力は攻めよせて来る。信仰深いダビデも、「だれを恐れよう。」、「だれをこわがろう」と言っ ているが、様々なやみとの戦いがあった。実際、「悪を行なう者」(2)が、「お襲いかかり、」、「陣営が張られても」(2、3)とあり、かつ て、ダビデがサウル王に追い回され、あわや、と言う時、ペリシテ軍の来襲によって、逃れたことがあった(Ⅰサムエル二三26~27)。あるい は、息子アブサロムが、父のダビデに反逆して、彼は逃避し、悲しい日々を過ごしたことがあった。しかし、アブサロムはロバに乗っていた時、、 その自慢の長い髪が木の枝に引っかかり、宙づりになって、ダビデの部下ヨアブによって、打ち殺された。(参照Ⅱサムエル一八15~18) そこで、「たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。」(3)と、信仰による勝利を宣言している。 いつも、敵は遠くにいるのではなく、近くにいて、私たちの信仰をゆさぶる。パウロは最大の敵は自分自身の中にいると言って、悩んだ(ローマ七 23、24)。 2.一つの願い(主の家に住む)4~6 これは冒頭の聖句にあったように、ダビデの切なる祈りと願いは、彼の信仰の源である主との霊的な交わり、礼拝であった。私たちは神との交わり の出来る霊的存在である。そのために私たちは犠牲の血の代価を通して、主の前に出られる者となったのである。 「一つのことを」とは「第一の」と言う意味もあると言う。つまり、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加 えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ六33) さらに、ある日「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているの を、何ともお思いにならないのでしょうか。・・・』」と、申し出たとき、イエスは「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだ けです。マリヤはその良いほうを選んだのです。・・・」(この時、マリヤは主の足もとにすわって、みことばに、聞き入っていたのである。) (ルカ一〇:38~42) ダビデがひとすじに願っていたのは、「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、・・・」(4)「悩みの日に私を隠れ 場に隠し、・・・かくまい、」(5)と、聖所(臨在)を慕い求めて、様々な戦いを勝利へみちびく力を得ていたのである。 三、御顔を慕い、主を待望する(7~14) どんな時でも、特に、絶えず敵との戦いの中で、「勝ち得て余り」あるためには、「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」(8)と言う、信 仰姿勢(本質的な在り方)こそ、大切である。 かつて「ヤボクの渡し」と言う所で「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」(創世記三二 22~32)と、あるが、兄エサウの祝福を横取りして、ヤコブ(押しのける者)は十四年間、母リベカの実家の地(伯父ラバンの所)から妻子と 共に帰路にあった。 この夜、妻子や、奴隷、持物も渡った後、ヤコブは夜を徹して祈り、神の使いと格闘した。そして、ヤコブは「もものつがい」を打たれ、腰が砕か れた。この時、彼は「私と顔と顔とを合わせて神を見た・・・」(ペヌエル)と言っている。つまり、祈りの中で、主の御顔を拝し、心砕かれる経 験をして、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神の皇太子)だ。」と、すばらしい変容をした。そして、エサウとは和解が 出来、祝福された生涯となった。 神の御顔とはイエス・キリストのことである。イエスを見た者は、父なる神を見たのと同じである。さらに、この詩は「待ち望め、主を。」と、主 を待望することの大切さを強調している。鷲は翼を広げて飛んでいる時よりも、高い山の上で、翼を閉じ休んでいる時の方が大切だと言われてい る。まさに、私たちも、神の時を待って、待望する者でありたい(参照イザヤ四〇31)。 |